感性の限界

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感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

限界シリーズ3作目です。

そもそも感じるとは何か

→物理的には、5感が何かしらの刺激を受け取って認識している状態。が、ここにあるモノを認識するためには、『ここにモノがある認識』という前提が必要で、その『認識』は他の誰かが認識したものなんじゃないか?という自己矛盾があります。 つまり物理的なアプローチでは『感じる』ことの本質にはたどり着けません。

心理学、もとい脳科学では、ただの感情ではなく客観的な事象が必要、というのが現代式の解釈です。例えば、『恋に落ちる』瞬間、脳ではノルアドレナリンとドーパミンが分泌されている状態だということです。 恋や恐怖などといった感情は、全て脳科学では物質の分泌が行われているだけでしかない。一定期間過ぎると脳内のノルアドレナリンとドーパミンの分泌は収まる、もしくは慣れる。そんなものらしいです。

また、5感についてもそれぞれ異なっていて、味覚や触覚は、生命に直結する自体が多いので、ほとんど反射的な原始的行動をするらしいです。(例:腐ったものを食べると吐く。熱いものを触るととっさに引っ込める) 一方で視覚・聴覚は即座に生命に直結しないので、客観的な概念が身についたようです。芸術作品が語り継がれていくのも、客観的な概念があってのことです。(においや肌触りの芸術品ってほとんど聞かないですよね)

人はどうやって判断しているのか

→人間は自分が思ってるほど理性的ではないようです。それは『ファスト&スロー』の頃から言っているとおり、脳内に異なるシステムがあるからです。 ここでは大きく、分析的システムと自立的システムで書かれています。 分析的システムは理性的で個体の存続を第一に考える。 自律的システムは本能的で種の存続を第一に考える。

人間はだんだんと分析的システムが優位になってきた。コーヒーなどの苦味を嗜好するのも、生物本来とは離れたもの。

人は合理的でない選択肢を意図的に選ぶ。(例:ギャンブル) そして、自身の認知的不協和を解消させるために、むりやり正当化しようとします。ギャンブルとかソシャゲとか典型かと思います。お金を使う言い訳がたくさん用意されています。(認知的不協和の解消の例は他にもイロイロなところで見られますよね。思い込むのもコレです) 一般に人は「得にはリスクを避け、損はリスクを取る」という特徴があるそうです。なぜなのかは知りませんが。

あと、有名なミルグラム実験。詳しくはググってください。

また、無意識的に誘導されるのもあります。これは他の本でも良く出てくるものですが、アンカリング効果について、悪名高い『マクドナルド・コーヒー事件(ステラリーベック)』があります。

本来、生物の役割は遺伝子を後世に運ぶための船です。働きアリとかが利他的に見える行動をするのも、カマキリのオスが性行為中にメスに食べられたりするのも、鮭がボロボロになりながら川を昇るのも、遺伝子を後世に伝えるためです。『利己的遺伝子』という言葉がありますが、これが自律的システムです。

一方、人間は個を優先する分析的システムが強くなりました。様々な争い事などは、全てココから来てるのかもしれません。社会が不条理なのも、精神を病む人が増えてるのも2つのシステムが相反するからかもしれません。(性善説は自律的システム、性悪説は分析的システムかもしれませんね。)

もっと現代人は自律的システムに従うといいんじゃないかな、と思います。これは感情的になるのとはちょっと違います。

決定論か非決定論か

→運命は生まれた時から決まっている、という決定論と、全てのことは不確実性に満ちている非決定論があります。 一般的には、マクロでは決定しててミクロでは決定していない。という『柔らかい決定論説』が有力なようです。 理由は簡単で、非決定論を信じるほうが生きるのが楽しく、決定論を信じると運命への探究心が沸くから。いいとこどりして楽しもうよ、って話です。

自己の存在の限界

→自己はジーンかミームによって、継承される。(ジーン:遺伝子、 ミーム:観念の継承)

女性は女として生まれるのではなく女になる、という言葉があります。生まれたときはお互いに性を意識していないはずです。が、社会の中でそういった区別をされ、立ち居振る舞いを教育されます。 歴史的に多くの文化圏で『男性は権力・公的・合理的』になり、『女性は弱者・私的・感情的』になる。これは先天的なものよりも、後天的なものが大きいらしい。日本でもまだそういった風土が残ってるかもしれません。

小集団の中では情報の選択も『自然と』制限される。これにより、その集団にますます傾倒するようになる。(宗教とかその類です。視野狭窄になりやすい。)

人に自由意志は存在しないとする実験結果がある。手を動かすとき、脳が手を動かす司令を出すと知覚する前に、脳は司令を出す準備をはじめているとのこと。コレに従うと、自由意志だと思っていたものは全て無意識に支配されているだけの偽物になる。

『私』が在るということは私の脳内でのみ起きている。そして自由意識は存在しない可能性もある。つまり、私の証明は私の中でしかできない。

(ちなみに、これらの話は次回の記事「火の鳥」に活かされる予定です。)

コメント

  • 1

分析的システムと自律的システムの定義がイマイチ直観にあわない… 分析的システムのほうが時間的スパンの短い判断であるため、「自分」の個別的生(テンポラリーな脳内物質の分泌)しか射程に入らない、という感じでしょうか? 買っちゃいそうだ!笑

  • 2

このへん、主張する人によって微妙に変わるので難しいんですが、以前書いた『ファスト&スロー』で、ファストが自律的システム、スローが分析的システムだと思われます^^;

コメントくれたので言うと、分析的システムは思考するのに時間かかる(脳のリソース使う)けど、自分のコトを考えるから、遺伝子レベルで言うと時間的スパンは短いのかな。

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