知性の限界

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知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

理性の限界に続く限界シリーズ第二弾です。

以前kindleでセールやってた時に買ったのをようやく読みました。まだ3つ目が残ってるので、それも今度読みます。

内容は大きく、

  • 言語の限界
  • 予測の限界
  • 思考の限界

です。

一部、引用と主観とがごっちゃになってます。この記事を『自分の言葉』とすると剽窃とかになりかねないので、自分の言葉じゃない、と初めに言っておきます。

言語の限界

ウィトゲンシュタインは、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことは沈黙しなければならない。」と述べる。要するに答えの出ないような哲学的思考全般について、どれだけ語ってもムダだと喝破し、語りえないことは、そもそもが存在しない擬似問題としています。 →昔は、針の上で天使が何人踊れるか、などといったことを議論していた。そもそも天使を体積のあるものと定義するかどうかで結論がことなる時点で答えのでる議論とは言えません。

ただ、晩年ではそれを否定。言語は『文化的な共有があるときに作用するもの』とし、造語や、概念の共有されていない単語は無意味だとする。 思考は言語に依存する。世界の見方は言語に影響を受ける。 →これに関して、「虹は何色に見えるかは文化によって異なる。」といった話もあるように、文化によって世界の捉え方は大きく異なります。そして、その中で生まれた言語についても同様で、言語それ自体が、文化の違う相手には異なった捉え方をされてしまいます。 そもそも、お互いの認識を絶対のものとする基準が存在しないので、すべては相対的にしか判断できない。

過去に、ソーカル事件もしくは知的詐欺と呼ばれる事例がありました。同じ言語を使っていてもミスコミュニケーションはよくあることです。日本でも原発問題を始め、言葉の理解の難しさがとてつもない影響を与えています。

自然科学などの、客観的な批判に耐えうる言語で語らなくてはいけない。

神の話や心の話も同様で、そもそも言葉の定義が曖昧な時点で結論がでるはずはない。そしてそれらは、現実に絶対的なものさしや基準がないため、言葉の定義を厳密に行うことは本質的に不可能である。(よって語りえない)

予測の限界

複雑系の推測は事実上不可能。 →バタフライ効果というものがあります。その事象を引き起こす様々な因数があるなかで、一つを測定誤差の範囲でずらしただけで、全体の結果が大きく変わることを意味します。一般に人は帰納法によって予測をしているが、複雑系の事象は因子が多すぎて、また蝶の羽ばたき程度の誤差でも大きく結果が変わってしまうことがあるため、推測が不可能なのです。鉛筆の芯の破壊にしても、密度や固さのほんの誤差でも結果は大きく異なります。雷や地震も同様でしょう。

帰納法という考え方は論理的でない。 →現代の科学を始め、様々な法則や決まりは帰納法で証明されています。が、本質的にはこれまで合っているからといって、明日もそうなる論理的な繋がりは何もありません。太陽が明日も昇ることは思考の上ではものすごい確度で合っていると言えますが、実際にそうなる根拠は何もないのです。引力や核融合などを用いて立証しようとしても、その理論がそもそも帰納法によって生まれたものなので、さらにその根拠を証明して上げる必要があり、ぞれを繰り返すと最後には何の論理的根拠も見いだせなくなります。

思考の限界

炭素などの元素、無機物から生命体アミノ酸が生まれる可能性は、ガラクタの上を嵐が過ぎたら、後にボーイング飛行場ができたくらいありえないらしい。宇宙物理における6つの定数は、そのどれか一つが少しずれていても宇宙の法則が崩壊することから「微調整された」数であるとされているらしい。 自然は、誰かが設計したとした思えないほど整然としている。つまり、設計者としての神を認めることになる。 →つまりこれらは偶然そうなったのではなく、何かしらの見えざる力によって整えられた条件、と考えるのが妥当ということです。 ただ僕の意見としては、そもそも宇宙を測る人間の理論で見ているからそういった定数が生まれているだけなのでは?と思います。様々な要素が複雑に絡み合って、結果安定しているから今の生物があり、人間が存在でき、ひいてこういった問題を思考できる。一方で、『微調整』されなかった世界については生物がいないので知り得ない。 戦闘機で補強すべき箇所に関して考えるときも、壊れた戦闘機だけを見ても、そもそも撃ち落とされた戦闘機は調べようがないので、そもそもサンプルが偏っている、という話に似ていると思う。

別の例でいくと、一億パターンの絵の束があって、とあるパターンの絵が選ばれたあとに、「この絵を引く確率は一億分の一だ。これは奇跡だ」と言ってるようなものです。他のパターンを引いても同じことを言っていたでしょう。

まとめ

全体を通して、限界というある種ネガティブな題材ですが、これは決して範囲を縮めるとか諦めの境地でなく、他者と考えを共有するにはこのルールがあると伝わりやすい、という程度のものだと感じています。ウィトゲンシュタインも、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語り合えないことは沈黙しなければならない。」としています。要は、社会的に行動する際は、ここでの限界以上のことを考えるのは非効率(というか無意味)ということです。 ただし、自分で夢想する分には好きで構いません。ファイヤアーベントも、「なんでもかまわない」と言っています。自分の好きなように思考し、共有できるところは共有できるようなコンテクスト(言葉・文化)で共有し、他者の価値観も理解する。これらが大切かと思います。

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