キュレーション3:アート産業(創作者)

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(「芸術」だとなんか固いので「アート」とします。  意味はほとんど同じで、ちょっとポップなイメージで書いてます。)

アートは、創造性・独自性の塊の世界と言われます。 ビジネスや産業にありがちな事情や制約をとっぱらった本当の意味での表現ができるからです。 しばしば、それを追求するあまりアートは政治やルールとぶつかります。表現の限界を作られたくないから。 「政治的な文脈と芸術的な信念、正義感が合体していかないと、本当の芸術はできない」と村上隆が言うように、現行の仕組みとぶつかってないうちは、どこかで理性のブレーキ、もしくは外圧がかかってるのかもしれません。

ただ、どこからが独自性でしょうか? あのトランスフォーマーは、日本のMAD動画を参考にしてると言われています。 宮崎駿も原作があるものを昇華させてるに過ぎません。

ちょっと例えがエンタメ方向へ偏りました。。。 CHINPOMというアート集団がいるんですが、彼らのしていることも、行為自体にオリジナルさがあるとは言えないかもしれません。使う媒体は動画や絵など。岡本太郎のオマージュなんかもあります。 結局世の中のアートは、既存の手法を組み合わせての新手法(見かけ上)の構築や、その手法を組み合わせた新しい(と解釈される)価値観の表現に過ぎないのではないか?と思います。 今あるものを組み合わせる、という意味でキュレーションです。

真に新しく独自な表現であれば、それは誰からも理解されないはずです。受け手にそれを理解するために必要な情報や下地がないからです。

また、アートを仕事たらしめてるのは美術館や評論家の存在で、彼らはキュレーターと呼ばれます。 美術館は様々あるアート作品をテーマに沿って収集して、それで入館料を取ることで美術を産業化させるためのもの。価値の不明な芸術作品を厳選して価格付けしたものとも言えますし、集めてきて展示する行為自体に創造性があります。 また評論家は、本来個々人が自由に感じ取るべきアート作品に対し、一定の指針と絶対的な価値を与えるものです。これによって、一般の人でもアートを身近にすることが可能になりますし、芸術に上下関係をつけることによって(数字に変えることによって)産業化できます。

これらは一見すると、視聴者の自由な感性を狭めているとも言えます。見るべきものを選ばれ、その見方すら与えられているわけなので。

絶対的な尺度のない『アート』という存在において、全ての判断は主観に基づきます。そしてそれは外的要因(キュレーター)に大きく影響されます。 アートがここまで続いてこれて、市民権があるのもキュレーションのおかげかもしれません。

オマケ そもそも日本自体アートな場所であると言えます。 四季や山々や災害と切り離せないこの国は、単純に生活する上では不便です。これを椹木野衣さんは悪い場所と表現しています。もっと気候の安定してて、開拓のしやすい平地で、地震のない方が生きるには良いに決まってます。

つまり、日本人は生まれながらにして機能性だけでなく、刹那的な美を追求してきたと言えます。日本に住む時点で非合理的な選択なのです。そこから自然崇拝や自らを自然の一部と考える哲学が広まってきました。 西洋の「我思う故に我あり」というような、自分が出発点の思想とは根本から異なります。

また八百万の神の教えなどから、万物に命があるという考え(アニミズム)という感性があるからこそのアニメ大国とも言えます。(何かと擬人化したり萌えキャラ化したりするのも、その文化からかもしれません。)

古来より、自分から何かを生み出すのではなく、もとあるものの再発見・素材を活かす、という意味でキュレーションに適した国だとも言えます。

<参考文献> ・日本2.0 株式会社ゲンロン  芸 術 家 の 使 命 と 覚 悟(村上隆)  草木の生起する国 (梅原猛+東浩紀)  3.11後の悪い場所(黒瀬陽平+椹木野衣+東浩紀)

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