過去記事です。
kindleで安かったので以前買ったヤツです。ようやく読み終わりました。
内容は大きく、
- 選択の限界
- 科学の限界
- 論理の限界
みたいなカタチです。
選択の限界
- 何か選択をするとき、その選択の決め方自体で既に公平性が失われる。
→例えば、小選挙区制では、選挙は八方美人より好き嫌いのはっきり分かれる人が選ばれやすい。投票方式それ自体で、求めたい人物像・結果が見えてくる。
- アロウの不確定性原理から、完全な民主主義は存在しないことがわかる。
→詳しくは書かないけど、上記のように、民主主義の「決め方」で偏りが出る。じゃぁその「決め方」はどうやって決める?
- 繰り返し囚人のジレンマにみる、人生の哲学。 「TFT戦略(やられたらやり返す)」が最強。
→ゲーム理論とかではわりと有名な話っぽいですが。 この結果は現実の選択にもわりと当てはまるんじゃなかろうかと思いました。始めから損得のはっきりした選択なら迷うことないけど、こういった事例のときの判断基準としてかなりアリかと。
- 集団的利得と個人的利得の相違
→結局、理性で判断できるのは損得までじゃないかな、と感じました。それ以上の倫理感は人それぞれで、結論の出るものじゃないし。
科学の限界
- ミクロの世界では、不確定性原理とか、波と粒子の二面性がある。
→マクロの常識が通じない
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不確定性原理は、世界は所詮主観にすぎないと示している。
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科学とは、識者の集団的合意で決まるものである。宗教みたいなものとも言える。
いつも思うけど、量子論は哲学に近いんじゃないかと思います。
ミクロの世界は全てが確率論でしかないですが、マクロでは必然性を伴っている。 個々の出来事では、時折神様のいたずらとか思うかもしれないけど、大きな時間軸では、なるようになるんじゃないか。
量子の二面性も不確定性も、所詮僕らが見て感じてるものって表面にしかすぎないし、全て主観にしか過ぎないってことかもしれません。 月があるのは僕らがそう観測しただけで、誰も見ていないときにそこにあることを証明できません。
この「観測されないと存在しない」観念論は、人にも当てはまるんじゃないかと思っていて、他者になにかしらの影響を与えられない人は存在がなかったことと同義になるんじゃないかと。
科学は全て帰納法で決まってきました。あくまで経験則で、それがこれからも等しく起こる保証はありません。
そして、科学は寛容さも併せ持ちます。量子論が出来てニュートン力学が否定されたように、これで完全、といったものは存在しなく、すべての科学者は一生探求者です。
論理の限界
科学はそもそも、限界を定義することとも言える。 科学を盲信するのは宗教に似てる。 言葉を使ってコミュニケーションする時点で、言葉の限界を超えることはできない。
最後に印象に残った文章を。
(とある経済学者曰く)理性の限界を認識せずに既存の合理性ばかりを追い求めている人を、「合理的な愚か者」と呼んでいます。
(とある哲学者曰く)全ての学問は、発見に対する「驚き」13/04/21から始まる
またしても散文気味になってしまいました。。。 が、思ったことは、理性はあくまでこの世を紐解く一つのツールなんだな、ということです。 これがないと、日々全てに驚き、何が起きてるか想定することも考えることもできない動物のようになりますが、これのみに傾倒してもしょせんは動物なので限界がありますよ、と。
ちなみに、初音ミクの誰もが知ってるであろうこの曲は、 「科学の限界を超えて、私は来たんだよ」で始まります。 初めて聞いたときはガチで感動して泣きそうでした。 科学もコンピュータも人も超えた初音ミクさんに限界はないんですよ!