諦める力

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過去記事です。

諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない

陸上の為末さんの本です。

正論だけど、「それ言っちゃダメだろ」とか「おまえが言うなよ」ということをズバズバと言ってくれるのでかなり好きです。オススメの本です!

当たり障りないこととか、もう知ってることを言われても聞く意味がないんですよね。かといって全く自分が共感できないことを言われても何も面白くないわけです。「ヤバイよね〜」とか言われても情報量ゼロで時間の無駄だし、いきなり「カントの純粋理性批判によると〜」とか言われても僕は何もわかりません。「千里の道も一歩から」とかって当たり前のこと言われても何も得るものはないし。

そういった意味では、気づけそうで気づけなかったもの、もしくは口に出すのを憚っていたもの、なんかがウケるんじゃないかなと思っています。芸術とかデザインでも同じだと思います。ドワンゴの川上さんも、「コンテンツの定義は、わかりそうでわからないもの」と言っていましたし。

話が逸れました。

手段は諦めてもいい。何が目的か考えなおそう

この本の主旨は、決してネガティブで全てを投げ出そうというものではなくて、「手段は諦めてもいい。何が目的か考えなおそう」というものと、「諦めるというのは何かに注力することと同義」という非常に前向きな本です。その中で、アスリートならではの、「肉体の限界・才能の限界」について触れています。また、日本人特有の「努力至上主義」に疑問を投げかけています。なのでこの本は、既存の価値観からの脱却と捉えてもいいかもしれません。

陸上では、勝つことを諦めたくないから100mを諦めた。

勝つためにはルールを変えることも必要。

為末さんにとって、本当に諦めたくなかったのは陸上で勝つことだったそうです。そのためには花形の100mを諦めて、勝てそうな400m障害物に移ったということでした。

諦めるというのは何かに注力することと同義

何かを捨てることは、諦めること、逃げるというより選択するに近い。人生は選択の連続である。選択するということは、必然的にそれ以外を捨てることになる。「どれもこれも捨てられない」という人でも、代わりに何か、時間・集中・お金、いずれかを捨てている。

人生は可能性を減らして行く過程だとどこかで聞いたことがあって、真っ白なキャンバスには無限に可能性があるが、線を一本一本入れていくごとにその選択肢は縮まっていく。その代わり、完成した絵は代えられない価値があるものだと。

肉体の限界・才能の限界

「人間生まれながらに平等」とか、「人は望めば何にでもなれる」とか、「努力すれば夢は叶う」とか平気で言われますが、世の中に平等はないし、才能の有無もあるし、避けようのない外的要因はいくらでもありますよね。ただ直視したくない、認めたくないだけで。

才能の有無を直視できないと、「あいつはいつも努力してないのに上手くいってる」と妬んだり、「自分はなんてダメなんだ」と落ち込んだりするでしょう。あんまり精神的によろしくないです。

「諦めるな!」と応援をしてくれる、声援をくれる人は責任を取ってくれるわけではない。コーチも同じ。他人の応援・指示に従うのは楽だけど、責任は自分でしか取れないことを自覚しないといけない。

努力至上主義

日本人は、努力とか忍耐とかを重んじる風潮があります。一生懸命やった方が、なるべく辛そうなことを乗り越えたほうが世間受けはいい。からみんなやってる。(ように見せている) 努力なしに成功することはできない。しかし、分野によって努力が楽しい人と、努力が苦痛な人がいる。

「努力でなんとでもなる」というのは、なんて残酷な言葉かと思います。 他人に対してその言葉をいう人はだいたいにおいて無責任です。

自分にとって、努力が娯楽になるフィールドで頑張るべきです。 日本語の「努力」という言葉にはネガティブな意味がつきまといますが、そんな努力をしているうちは、楽しくやっている人には勝てないでしょう。そういう人は努力の質が違っていて、辛くない努力ならいくらでもできるんです。

個人的まとめ

人は場に染まります。 閉ざされた環境や、努力至上主義が蔓延しているコミュニティだと、元々好きじゃなかったとか才能がなかった人にはなんとも辛い環境でしょう。 積極的に外を見る、情報に触れることが大事だと思っています。 そうやって常に複数の視点を持っておき、そこから自律的に自分の進路を選択することで、受け身でなく主体的に自分のしたいことを選べるはずです。

例えば何か勝負・ビジネスの世界に身をおいているとして、勝つためには陰で不正をしても構わないのか?結果が絶対に必要なのか?もしくは夢を追えればそれで満足なのか?自分に問うてみるのもいいのではと思います。 この辺は意識しないと自己矛盾・手段の目的化になりがちなところのようですし。

個人的には、頭良くて不真面目な人より、頭悪くても一生懸命な人が好きです。

プログラマーの人たちを好きなのも、彼らが本当に楽しそうにしてるからだと思う。仕事がじゃなくて、技術を使う、学ぶことについて。さらにはそれを広く共有することについて。

だいたい、嫌な努力なんてしたくないんだって。話したくないやつともうまくやらなきゃいけないサークルとか、お酒飲めないのに我慢して飲めってのとか。自分が納得出来ないそれらの我慢なんてしたくないのですよ。だれだってそうでしょう。

おまけ

僕の場合、月並みですが挫折しつつ道を変えていっています。 秀才でもないので政治家や官僚は厳しい。スポーツも音楽も大学院も、向いてないと思ってやめた。どうやら知らないことを調べていくのは楽しいらしいので、それを伝える職につきたい。ただ話す才能はないので、今は文章や別の表現にしよう、などと考えてきています。

これまで、あれこれ手を出して中途半端にやめてきました。これまでの行為が時間の無駄と言われればその通りだとは思いますが、それらのおかげで自分の目標が決まってきたのも事実です。そのおかげで今はあれもこれもと欲張るのは辞め、目標を絞って時間の集中を図ろうとしています。

で、今はこの職に着いています。 いきなり超ベンチャー行っても何も出来ないから、まずは修行として。ここでも単純な実力では勝てないだろうから他の道を探しています。さらに、僕の目標としてるジャーナリストも、簡単に言えば頭が良くないからこそ向いてると思っている。

頭が良くて何の苦労もなく理解できちゃう人や学者は、一般向けに説明するのはニガテだろう。ジャーナリストはそれ専業になるあまり、どんどんマニアックになっていくでしょう。

だからこその立ち位置だ。何か学ぶこと、それを人に伝えることが苦にならなくて、頭が良いでも悪いでもないのが僕の才能だと思っているので、それを生かす方向で頑張っていきます。

なんというか、社会的に見たらダメダメなこれまでの自分を肯定してくれるような本だったかもしれません。たぶん、諦めたことのある人みんなにとってそう思わせてくれる良書だと思います。

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