議論のあり方について

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最近、就活シーズンというコトで、多くの面接・自己分析・同期との対話など、自身の考え方の統一化・言語化に取り組んでいるのですが、やはり難しいですね。

正解がなく、また良い考えを持っていても、しっかり自分の中に落とし込まないと説得力が生じなかったり、 他者の、自分と違う意見を受け入れるべきか、自身の一貫性を貫くべきかなどにも悩んだり…

そんなコトを悶々と考えてるときに思ったのですが、「議論するって良いものだな」と。

というのも、僕は昔から議論が嫌いでした。

キッカケは僕の好きな坂本龍馬が、「議論は嫌い」だと語っていたらしい、と本で読んだからで、 考えてみると、議論して、話の矛盾を突き、相手を言い負かしても、表面的には意見の画一化がなされますが、 言い負かされた方は快く思わないし、わだかまりが残ってお互い得しないな、と。思ってました。

個人的事例

例えば、個人的な事例なのですが、小学生の頃の授業で、「鉛筆・シャーペンどっちを使うべきか!」という問いを先生が提案し、生徒を2グループに分けて議論したコトがありました。 そのとき僕はシャーペン派として参加し、双方で、様々な意見が飛び交いました。

例を挙げると、 - シ「筆箱に、ペン一本と芯さえあればいいから、軽いしラク!」

  • 鉛「落としたりすると困るから、複数本持ってくべき!それなら鉛筆の方が軽い!」

  • シ「鉛筆は削るのが手間!しかも芯削ると汚れる。」

  • 鉛「シャー芯が床に落ちると、回収が難しく、また、剥き身の黒鉛が、床を汚しやすくて迷惑!」

  • シ「そもそも、シャーペンは芯だけなので安価!鉛筆は高い!」

  • 鉛「みんな家に鉛筆が余ってる。だからお金はかからない。」

  • シ「鉛筆は木を削って作ってる!環境によくない!」

どうしても、僕がシャーペン派だったもので、そっちよりの発言が優勢になってしまいましたが、だいたいこんな感じです。 (お互いにもっと幼稚な内容でしたが…)

で、最終的に、中学受験をする、クラス1頭の良い子が、

鉛「なんでも機械化(?)するのは良くない!木の温もり、自然の良さを認識するべき」

的な発言をし、発言者の威厳のせいか、なぜかみんなその子の意見のに乗っかり、投票では鉛筆の圧倒的勝利でした。 僕も、その場ではその子の意見が正しい気がして、鉛筆派に投票してしまいましたが、家に帰って考えたら、「やっぱりおかしくね?」と。σ(^_^;)

次の日、シャーペンを使っていたら、クラスの子達に、 「昨日、鉛筆使うことになっただろ!なんでシャーペン使ってんだよ!芯で教室汚すなよ!」と言われ、取り上げられたのを覚えています。

話がそれましたが、子どものころは、議論とは「相手を言い負かし、説得して自分の意見に従わせるもの。意見を変えてしまった方が負け。」と思っていました。 自己主張が好きではなかった当時の僕は、「相手に従わせるのも、自分が言い負かされるのも嫌だ!議論は損しかしない!」と、議論を毛嫌いしてきました。

しかし最近思うのが、今まで僕が定義してきた、そういった「議論」とは、日本的、もしくは学校のカリキュラム的な「議論」だったんじゃないかな、ということです。

海外で行われているメジャーな「議論」は、明確な勝ち負けや、意見の統一を目的とするのではなく、互いの意見をぶつけ合うコトで、考えを磨き上げることを目的とした行為なんじゃないかなと。

ちょうど、尖った石がぶつかり合うことで、丸い石へと研磨されるようなものかなと思います。

そういった意味での議論は、互いの絶対にぶれない軸を明確にしたり、今まで常識だと思っていた固定観念を打ち破ったりと、新しい自分の発見に不可欠な行為だと思います。

なので僕はこれから、違う価値観を持った人達と積極的に議論を交わしたいなと思いました。

コメント

この話覚えてる!懐かしいw しかも、鉛筆派だったわ。

議論いいよね。自分とは違う意見を持った人とぶつかり合うのも好きだし、人生とか社会について語り合うのも好きかも。

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