コンテンツの秘密

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ドワンゴの川上さんが書いた、情報量、良いコンテンツの定義、などについて考察された本。

川上さんは、理屈より感覚と思われている抽象度の高い分野を体系立てる枠組みを考えるのがうまいなぁと感心していますが、本書はその最たる例です。

コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと (NHK出版新書)

クリエイター側と消費者側との両方の視点から述べられていましたが、 個人的に気になった消費者側の視点を主にまとめます。

いつもどおり、本書の内容と僕の考察とが入り交じっていますが、 僕の中では区別すべきものではなく、本を読んでアップデートされた自分の理解をまとめているだけに過ぎません。 例えるなら原作の二次創作的な位置づけです。

コンテンツとはなにか?

よく使われる邦訳としては「情報の中身」らしい。 中身に対して外側のことをメディアと呼ぶ。メディアの例は新聞、テレビ、CD、映画館などなど。

次に「情報」とは何かというと、(五感を通じて)受け手に知識や経験を付与するものといえるでしょう。

つまり「コンテンツ」とは、「メディア」のフォーマットに沿った形で「情報」として生成され、「五感」を通じて「受け手」に知識や経験をもたらすもの、としておきましょう。

構図としてはこんなかんじです。

情報 = コンテンツ + メディア

受け手 ←(五感)← 情報

なぜ人はコンテンツを求めるのか?

さて、ではなぜ人はコンテンツを求めるのでしょうか。 言い換えると、なぜ人は情報のやりとりをしたがるのでしょうか。

一つの答えは、人間は現実世界の模倣が本能的に好きだからです。

子供の頃から、ヒーローごっこやおままごと、大人の話し方のマネなど、人間は何かを模倣することが好きです。 また、学問といったものも、世の中の事象をあるモデルに落としこむことなので、再現可能な形に模倣していると言えます。 人間はこれらを通じて、災害への予防や人付き合いの作法といった生きる術を身につけるようになっているのではないか。 そのため、知的好奇心などと言い表されるように、人は他者の考えたモデルを知りたいために情報を求めます。

発信者も同じように、自分の理解しているモデルが正しいことを証明したい、あるいは間違いがないか周りに問いたくなるものです。

近年の日本では、今まで以上に情報が氾濫しているように見えます。これは、技術の進歩によりただ生きていくことのコストが減ってきたため、食欲などの次欲求として知的好奇心の充足(情報の摂取)を求めるからではないでしょうか。

良いコンテンツとはなにか?

さて、ここまで情報(コンテンツ)の定義と必要性について述べてきました。

それに沿うと、コンテンツとは、

受け手の「現実の模倣」の精度を上げるような、「現実の事象のモデル化」を提供すること

であり、良いコンテンツとは、その精度がより上がるもの、ではないかと推測できます。

現実の事象のモデル化については、詳しく受け手の「現実の模倣」の精度を上げるは後述しますが、人間の脳の処理性能上シンプルなものを好む傾向にあるようです。つまり、よりシンプルなモデルで正しく現実の模倣ができることが理想なのです。

それでは、本書に載っている例をはじめ色々なサンプルを通じて、良いコンテンツの定義が的を射ているかどうかを検証してみます。

「情報量」という指標

アニメーション業界には「情報量」という指標があるそうです。 業界での情報量の一般的な定義は「線の数」です。

線が多いと描くのが大変で見る方も疲れるが、現実に近い細かな記述ができる。逆に線が少ないと描くのが楽で特定の事象にのみフォーカスできるものの、見る方は飽きやすい。

といった作りこみの指針として使われているそうです。

動画関連のクリエイターの間では、

実写 > 細かい絵 > シンプルな絵

の順に情報量が増えていくと言います。(これはデジタルの圧縮技術をかじっていれば、圧縮しにくさと言い換えてもいいでしょう。)

ジブリ作品が人気なのは、絵が細かく情報量が多いため何度見ても飽きないから、と言われることもあるそうです。

しかし、単純に情報量を増やすといいのかといえばそうでもないようです。 実写でもアニメより面白くないものは多いですし、シンプルな絵が人気が出ることも多いです。

どうやら情報量という指標はコンテンツの良い悪いに関連はありそうなものの、比例関係とまではいかないようです。

ここで川上さんは「情報量には主観的なものと客観的なものがあるのでは」と推測します。 (こういう発想ができるのがすごいです。)

その分類を用いると、自分が有用だと感じる情報(主観的情報)は、先述の「現実の模倣の精度を上げること」と言えそうです。

それに関係ない枝葉の情報がくっついてしまうと、模倣のモデル化が複雑になり、脳が処理しきれなくなってしまうため、一般に面白くないコンテンツと言えるのではないでしょうか。

絵や写真におけるぼかしの技術

いい写真と感じるものの中に、背景などを綺麗にぼかしているものがあります。 本来、これはカメラの仕組み上避けられない制約なのですが、うまく使うと「良い写真」と呼ばれるものになります。

ここから推測するに、「良い写真」とは、作り手が表現したい対象物を的確に認識させる、かつ不要な情報(ノイズ)が少ないこと、と言えるのではないでしょうか。

人間の脳の容量の限界

人間は五感で得た情報を全て記憶しようとすると、5分と持たず容量の限界を迎えるそうです。(脳科学の本に書いてあったはず。。) つまり脳は日々受け取る膨大な情報の中から、これは有用だと思えるものだけを取捨選択して記憶しているのです。

では、脳はどういった基準で取捨選択しているかといえば、やはりよく使われるものでしょう。

暗記をするには、繰り返し勉強するといいそうですね。 これは短期記憶に格納されている情報を何度も引き出す過程において、脳が「これは頻繁に使われるから覚えなくては」と判断し長期記憶に格納するからだと言われています。

同様に、あるシンプルなモデル化で色々な事象を説明できる場合、何度もそのモデル化情報にアクセスすることになるので当然長期記憶に移行されます。 脳からしてみれば記憶領域の消費が少なくても多くの事象への洞察を行うことができて便利なわけですね。

機械のディープラーニング

先ほどの推測した脳の仕組みは、機械学習で流行っている「ディープラーニング」の仕組みと似ています。

これは、

  • ある類似の事象を与えてパターンを抽出させる。
  • パターンができると、それに照らしあわせて先ほどの事象を再現することができるかをチェックする(情報の圧縮・オートエンコード)
  • 精度にズレがある場合、パターン化をやりなおす。

というプロセスを踏むことで精度を高めていきます。

ここでいう「パターン」は、先ほどから話している「現実のモデル化」と同じものと考えられます。 つまり人間の脳の記憶の仕組みを真似ている形になります。

実際に、膨大な画像を機械にぶちこむことで、「ネコ」と検索するとネコの画像が表示されるようになった、といった実験結果はいくつかあるそうです。(雑な説明ですが。。)

では機械に人間と同様の判断が出来るようになるかというと、まだしばらくは難しいのではと個人的には思っています。 というのも人間が「ネコ」を認識するのは静止画だけではないからです。

動きを見て四肢の使い方を推測したり、ライオンなどの類似の生物を見て獰猛さを推測したり、豆腐や鉄の触り心地と比べてどのくらい柔らかいかを推測する、といった部分ができるようになれば、かなり人間に近いモデル化ができるのではと個人的に思っています。

デフォルメ

アニメなどではよくデフォルメの技術が使われています。

殴られたら現実以上に吹っ飛んだり血が出たり、現実ではありえないほど小さすぎるキャラやボンキュッボンすぎるキャラがいたり、俗にマンガ肉と言われるような、骨付きの巨大な肉があったり。

ジブリの「風立ちぬ」でも、外国人のキャラクターを書くときに、モデルとなっている人の特徴を考えて、 鼻が大きいということからあの顔にしたのだとか。

また、江戸時代のころから「鳥獣略画式」というものがあり、単純な線でネコや犬を表現するといった手法が取られていたようです。

これも「モデル化」と言えます。より少ない情報源で表現できるのがいいのです。

うまい絵とは写実的な絵ではなく主観的に気持ちいい絵

トトロが流行ったのは、トトロのお腹が柔らかくて気持ちよさそうだからだ、とジブリの鈴木さんは言っているそうです。 また、宮崎駿さんは飛行機を実物よりも大きく書くのだとか。

脳は現実そのままを認識しているわけではないと書きましたが、これらも同様で、 実物よりもリアルに見える絵(受け手の脳の認識と近い絵)というものがあるようです。

猫を書くのがうまい人は、猫のやわらかさとか可愛さをうまく表現できる人。 小道具を使ったりありえないポーズを使っていても問題ないのではないか。

他にも、ジブリの手法で言うと、 背景をたくさんみせたかったら現実を歪めて隠し、裏に隠れているものが見せたかったら無理にでも絵に収める。逆に、見ても表現したいものと関係のないものは現実には見えているはずでも消してしまう、 などといったテクニックが使われているそうです。

なぜ人によって良いコンテンツが違うのか

「受け手の現実の模倣の精度を上げる」という点から考えると、その受け手の捉えている現実によって良いコンテンツが違ってくるのは当然です。

例えば、日本では蚊は怖くないですが、マラリアなどの感染症に苦しむ地域では死神のようなイメージがあるかもしれません。 大人と子どもでも、現実の理解度や社会をどこまで知っているかによって、趣味趣向が異なってきます。

ジブリ作品でも、人によっては「あんな高さから落ちて生きてるなんて馬鹿げている」とか、「難しすぎてよくわかんない」なんてことがあるでしょう。

分かりそうでわからないもの

これは川上さんがずっと考えている「良いコンテンツの定義」です。

これはおそらく、自分の中の気づかなかったモデル化のヒントを与えてくれるものではないでしょうか。

モデル化を全て説明してしまうと、人によってはすごく納得すたりちょっと違うと感じるでしょうし、そもそも結論が出てしまったのでこれ以上の議論は不要になります。

そこを少しだけ謎を残しておくと、口コミで話題になったり、二次創作が発生したり、続編を期待したり、といった「商売としての良いコンテンツ」になるのではないでしょうか。

まとめ

良いコンテンツは以下のように解釈してもよさそうである。(※ただし商売上の良いとは異なる。)

受け手の「現実の模倣」の精度を大きく引き上げるような「現実の事象のモデル化」を提供すること

この定義に納得できるのであれば、この文章はあなたにとって多少は有意義だったのでしょう。

おまけ

芸術とデザインの違い

前々からこの2つの類似性を考えていたのですが、現時点での解としては、

芸術は特定の受け手へ大きな知見を与えることを意図したもの、デザインは多くの人へ簡潔な知見を与えることを意図したもの

と考えています。

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