シンプルさの利点と弊害

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さて、前回に続いて、という内容になります。 ちなみに、最近頻繁に更新してるのは、決して暇だからじゃないですよ! もうすぐ1000いきそうだから頑張ってるだけですw

最近、LINEが流行ってるらしいですね。 僕はほとんどしたことないんですが、 スタンプというものが総額1億だかの売り上げだとか。

で、こんな記事を見つけたのでおまけで書いてみました。

参考文献 LINE『スタンプ』は何故成功したのか。 ~スタンプコミュニケーションの可能性と理論的考察~

同じ大学生、ということもあって、 「へん、全然論理的じゃないね!」 なんて言ってやりたいんですが、まぁ色々考えさせられたので ありがたい内容でした。

で、思ったのが、シンプルさって別に文字じゃなくてもいいんだな、ってこと。 当たり前と言えば当たり前なんですが、 直感的に理解するには文字よりよっぽど適してます。

ジョブズのプレゼンとかでも、一枚一枚のスライドがやけに雄弁に語るし、 LINEスタンプの受け入れられ方をみればわかりますよね。

特に思ったのが、 ニュースとかにしても、 新聞とかでときどき見られる風刺画って、実はこれ以上ない表現なのかも。 ってことです。

アレの一枚の絵から得られる情報量は半端ないし、 何よりイメージが植え付けられるので忘れることも少ないです。 まぁ、書き手の偏見がモロにでちゃうから、中立なメディアとは言いづらいですが、 一番シンプルに言いたいことを伝えられるでしょう。

今後、そういったメディアが出てくるかもしれませんね、なんて。

で、弊害についてです。

先ほどの参考記事に戻るんですが、 LINEスタンプの売りは、 あいまいさ・表現の簡潔化であるといってます。

これって、裏を返せばなんも考えなくてもやりとりが出来ちゃうわけで。。。 いい反面、言葉の理解力ってなくなってくよなー、と思います。

言わば、気がおけない友達同士のコミュニケーションに特化しちゃってるわけで、 相手の心情を察したり行間を読んだり、 言葉を考えたりする行程を バッサリはぶいちゃってるわけです。

これは、先ほどの風刺画なども同じことが言えます。 便利でわかりやすい内容ってのは、一見便利で重宝しますが、 情報を受け身で届けてもらってるに過ぎないので、 いわゆるメディアリテラシーが育たない欠点があります。

そんな人たちが急に社会に出てやっていけるんだろうか?

動物園で育てられたライオンが急にサバンナに連れて行かれるようなもので、 自分で情報の集め方・伝え方を学んでないと社会に飲み込まれじゃないか。

なんてことも考えたりします。

長くなりましたが、 編集された情報は便利だけど、たまには自分で考えることも必要だよ!

ということですね。

(ちなみに、前の記事で述べた一言にまとめろ、っていうのは、  言葉の編集能力が問われるわけで、そこは自分で考えてると言えますかね。)

いじめるほうが得

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最近、とかく『いじめ』が話題になってるようです。

まぁ、議論は様々ありますが、ネットの意見は偏ってるかもしれませんが、 いじめはなくならないでしょう。

それはわかります。このくらいなら誰でも言えます。 で、それだけじゃつまらんので、 もうちょい面白く書いてみようと思います。

そういえば、僕は昔わりと苛められましたが、 おかげでか、割と早い段階で人の痛みを知れるようになったと思ってます。 また、いじめられてる子とよく一緒にいたのでさらに攻撃されましたが、 今となっては、自分の価値観を見つめるいい機会になったと思ってます。 (モチロン当時は最悪でしたが・・・)

さて、子どもベースで話を進めますが、 だいたいの大人・学生にも言えそうなんで、 思い当たる人がいる場合は、「あぁ、あの子は子供なんだなぁ」 と思っててください。 なんか優しく接せるかもしれません。

前提条件として、子どもはむしろ理論的だと思いますよ。 というより、打算的といいましょうか。

あと、子どもは、絶対的な価値観を持てるほど年を重ねていないので、 自分の評価すら他人と比較してしかわからないと思います。 自分で自分を信じられるほど強くないから、 他人を蹴落として相対的に強くなったように感じたいんです。

単純な話です。 いじめる側に回った方が得だから、みんないじめるんです。

他人を批判するなんて簡単です。 完璧な人なんてありえないので。 その方が社会的に優位に立てるし、特に悪い事もないです。 いじめは、加害者が複数で被害者は一人だから、 一人一人の罪悪感も感じにくいし、 みんなで上手く口裏あわせて、怒られても言い逃れられます。

また、「嫌われる」なんてあるわけなく、結局いじめる方が人気が出ます。 イジメなんてサイテーっていってる人たちも、 いじめっ子がちょっと優しくしたらもう許してあげたり、 むしろギャップ萌えがあるもんです。 その他、我関せずって人たちも、いじめっ子についた方が得なので 嫌われるどころか好かれます。

打算的な子ども達にとって、いじめっ子はモテるに決まってます! (ぁ、嫉妬してる訳じゃないですよ^^; 決して、昔を思い出して壁ドンとかやってないですよ。(*゚ー゚))

また、自分が虐められたら嫌でしょう? って諭す大人がいますが、てんで的外れです。 虐められたくないから虐めてるに決まってんじゃん。 そもそも、子どもでそんな他人の痛みがわかるわけねぇだろう、 経験ないんだから。

道徳的なコトを言ってわかるほど子どもは物わかりよくないですよ。 だって、親が、大人たちがそもそも道徳的でないもん。

いじめはこの社会を生き抜く処世術なんですよ。 まぁ、僕は気分が悪いので絶対やりませんが。 得しかないけど、心が腐るから。

参考文献

内田樹の研究室

大西 宏のマーケティング・エッセンス

木走日記

『芸術』と『自己満』

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今回は、偉そうにも芸術について書きたいと思います。 といっても、特に詳しいわけではないので、 「素人がなんか言ってるよ」位で聞いてくれればいいです。 あんまり、怒ったり突っかかったりしないでください。

最近シェアハウスに越してから、芸術に関わってる人と話すことが多く、 こないだ、ギャラリーにも行ってきました。 その中で思ったことは、 『芸術って、良くも悪くもあくまで自己表現なんだなー』 ということです。

主観ですが、多くの芸術家は、 作品を通じてただ自己表現をしたいだけのようです。

彼らは、視聴者に歩み寄るのを良しとしません。 「この作品の良さがわからないなら良いです」ってスタンスですね。 そのくせ、やはり世間に認めてもらいたい欲求はあるし、 自分の作品を気に入ってくれる人がいたら需要が生まれ、 その数が増えると人気アーティストになる、 って構造なわけで、なんかよくわかんないなーとか思います。

「見るものを選ぶようなものを、私は芸術と呼ばない。」

これは、僕が読んだ小説の中で、天才絵師が言っていたセリフです。 何を読んでたか、前の記事みれば想像つくかもしれないですねσ(^_^;) まぁ戯言ですが…

僕はこの考え方がとても好きです!

例えば、先ほどの自己表現の例でいえば、 自分の作りたいものを作るだけなら部屋に篭ってればいいわけで、 作品として視聴者にみてもらう時点で、 彼らに対して何か感動を感じてもらいたいとか、 気づきを与えたいとかって思いもあると思うんです。

だったら表現を自己満なだけでなくて、 伝わりやすいようなものに変えた方がいいと思うわけです。 決して、視聴者に媚びて内容を変えるわけじゃなくて、 表現の仕方をわかりやすくするって感じですかね。

視聴者のことを考えていない作品は、 進んで人に見せるものではないと思います。 それは自分の世界観の押しつけだと思うから。

誰に対しても『これはすばらしい芸術だ』と思わせる作品なんて 出来るわけないのかもしれないけど、 作品を作る時点で視聴者を選別してしまうのは違うと思います。 こいつらには見せてもわからない、ってのは表現者の甘えです。怠惰です。

(これ言ったら、たいていの芸術家は怒るんだろーなぁ^^; 怒るってのは、自分に自信のない現れだと思います。それについてはまた別記事で)

少女不十分

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最近、電車の中で西尾維新を読んでいるのですが、 今回はその中でも変わった本をご紹介。

少女不十分 (講談社ノベルス)

たまにはということで 今回は、ちょっと文学少年を気取って書いてみました。

これは小説ではない。

裏表紙の紹介文に、そう書かれていた。 はじめは、 『あぁ、相変わらずの天邪鬼っぷりだな。またなんかわけわからない小説書いてるよ』 と思っていた。

そして、本を読み進めていくに連れ、 くどい位の自己弁護と歯切れの悪さで、 物語のテンポも非常に悪くて、 『なんだこれ、狙いすぎてつまんねぇなー』 とか思っていた。

普通に小説として読んでいた当初は面白くないなと感じていた。

しかし、最後まで読んだ時、 そんなものはどうでもいいくらいに感銘を受けた。 こんな出来事が、こんな結末があっていいのかと。 そして、彼がなんで作家を目指したのか、 その理由が、原点がここにあったのかと。

たかが小説に何を感情的になってるんだと思うかもしれない。 本人に聞いても『ただのフィクションだよ』と一蹴されるかもしれない。 そもそも、彼はこんな戯言が得意なのだから…

だけど、僕にはこれがただの小説には思えなかった。 そう呼ぶにはリアリティがありすぎるから。

冗長すぎる言い回しを繰り返す中で、 僕の中では小説、という捉え方ではなくなってきたのだと思う。 むしろ、事実をここまでフィクションぽく書けるのだな、 と思ってしまったほどだ。

たぶん僕は、

これは小説ではない。

という文句をみた時点で、もう彼に騙されていたのかもしれない。

酔っ払いと喫煙者キライ

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タイトルまんまです。

って言っても、 あんまりネガティブだったり愚痴みたいな発言はしたくないので 生産的な話に持ってきたいです。

まず、『酒』と『たばこ』が嫌いなわけじゃないんです。 『よっぱらい』と『喫煙者』がキライなんです。

なんでかって言うと簡単で、 自己中だから。

どっちも、自分の快楽のために他人に迷惑かけるじゃないですか。

まず、よっぱらいです。 ある程度の酔いはもちろん僕だって好きだし、 サークルとかでヨッパライを見てるのは好きです。 だけど、やっぱり他人に迷惑かけるのはよくないですよね。

別に大学生に限ったことじゃないんだけど、 関係ない通行人に突っかかったりぶつかったりするのはモチロン、 仲間内だけで楽しんでる騒音・奇声とかも、 端から見ててちょっと不快です。

そのくらい気にするな、ってもっともな意見もあると思うんですが、 僕がもっと問題だと思うのが、 『酔っ払いだからしょうがない』って風潮です。

たしかに、酔っ払いに説教とかしても明日には忘れてるでしょう。 『のれんに腕押し』ってヤツです。 だけど、彼らは普段から、

「よっぱらいだから、騒いだりモノ壊してもしょうがないよね。そこらへん大目に見てよ」

って感覚を持ってるんだと思います。

これが腹が立ちます! どんな形であれ、他人に迷惑をかけるのを反省しないのは問題だし、 自分のストレス発散とかのために周りを巻き込むとか 倫理に欠けるとしか言えません。 『反省した』って口で言ったって、 記憶なくすくらいまで飲んだ時には、他人に迷惑かけるに決まってます。 その時点でなんも反省してません。 進歩のない人間はキライです。

さらに、たばこの方がタチが悪い。

僕は元来、たばこの煙で頭が痛くなる体質なので 人一倍、喫煙者は好きじゃないんですが、 彼らも他人のことを考えてないと思います。

ケムリが臭いとか、体に悪いとか、 大半の人は認識してるはずです。 なのに、彼らは

「ちょっとくらいいいいでしょ。大目に見てよ.たばこ吸わしてくれないとか、どんだけ心狭いんだよー」

とか、思ってるでしょ。 喫煙が、周りにとって一つも良くないことを知りながら、

「俺が吸いたいんだよ。ちょっとくらいなら問題ないでしょ?」

なんて言ってるの聞くと、

『放射能垂れ流して、直ちに問題ないっていってる  東電とか政府と同じようなもんだな。』

って思ってしまいます。

また、

「俺は喫煙ルームでしか吸わないから迷惑かけてない」(キリッ)

って人いますが、僕は鼻が敏感なので、服についたにおいでも ときどき頭痛くなります。 また、換気してるとはいえ、 たばこのけむりを空気中に吐いてるのは間違いないわけで、 どう考えても迷惑かけてないことはないでしょう。

本当に迷惑かけてないって言うなら、自分が吐いたケムリも服や口のニオイも完全に処理してから言ってください!

以上、どうしても酒やたばこに浸かりたいなら、 もっといっぱい税金払ってください。 いまは『嗜好品』ってだけな気がしますが、 『他人に迷惑かけてる税』も払ってください!!(´ー`)y-~~

百匹目の猿

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百匹目の猿―「思い」が世界を変える (サンマーク文庫)

久々のブックレビューです。 最近本読んでないですねー。

今回は船井幸雄さんの本です。 経営コンサルタントをしているかなりの著名人です。 業界では超がつくほどの偉人らしいです。

そんな人のこの本、内容は哲学に近いものですかね。 場の共鳴とか、波動のエネルギーとか、現代科学で証明できない 不思議な力を、実例を用いて説明したのち、 どういった考え方を身につけるといいのかを書いています。 うさんくさい内容ではあるのですが、第一線で活躍している ビジネスマンの書かれた本ということもあり、 ちょっと耳を傾けるに値する内容だと思います。

百匹目の猿

まず、タイトルの百匹目の猿ですが、 とあるサルが、芋を洗って食べるという知恵を身につけました。 それを目にした周りの猿たちもそのやり方を真似ていき、 群れ全体にその食べ方が流行したそうです。

その後、まったく別の地、上記の猿の群れとの交流が一切ない地でも 同じタイミングでサルたちが芋を洗って食べるのが目撃されたようです。

つまり、ある文化・行動が、ある程度の規模 (ここでは便宜的に『百匹目』と書いています) にまで広まったとき、 物理的な接触を超えた『共鳴』というものが存在する、 という事例がこの本の起点になってます。

これと別の事例として、

『波動』によって感情・エネルギーが伝播して他者に影響を与える。

同じことについてたまたま同時に考え・行動している、

シンクロニシティと呼ばれる現象が起こる。 (例:特許やビジネスモデルなど、  船井さんも執筆中に同じテーマの本を書かれている方に会ったそうです)

過去の存在からも影響を受けるため、文化が継承される

趣向が似ていたり、長年受け継がれてきたもの(芸術・歌)などは そっくりの偽物と比較させても本物の方が受け入れられる などといった実例も出てくるのですが、

これらを聞いてどう感じるでしょうか? 「非科学的だ!」と思って聞く気すら起きないでしょうか? それとも、「危ない思想のおじさんだ。」と否定するでしょうか?

自分の想像を超えた世界を受け入れるのは非常に困難で勇気がいります。 さらに、近年では宗教勧誘やら詐欺やら、 素直に受け入れていては騙されてしまうことが増えたため、 ますます懐疑的になります。

船井さん本人は、 「鷹は鶏よりも高く飛ぶが、鶏より低い視点も持つことができる。  しかし、鶏は鷹よりも高い視点から物事を見ることはできない。」 と表現してます。

過去のガリレオやアインシュタインの理論がすぐには受け入れられなかった理由 も同様でしょう。 今までの知識や経験を超えたものについて、人は理解すらできないものです。 特に、知識・経験が多い高齢者にその傾向が強いです。 しかし、過去にもそういったパラダイムシフトは起こっています。

信じる・信じないは個人の自由です。 ちなみに僕は理系で頭が固いこともあり、まだ信じ切ってはいません。 ただ、これらの現象を受け入れた方が楽しくなるな、とは思っています。

例えば、病は気からというように、意識して前向きに考え エネルギーのある人と関わっていればエネルギッシュでいれるでしょう。 また、シンクロニシティを受け入れれば、前向きな自分に共感してくれる人が増え、 一定量を超えると、後ろ向きの人をも前向きに変えられるかもしれません。 本物は継承されるエネルギー・共鳴力が強いことを受け入れれば、 自ら本物を追求し、イノベーションを起こせるかもしれないし、 ニセモノ・粗末な製品は淘汰されていくでしょう。

ただ否定して現状維持はとりあえず安泰です。 ただ、まだまだ科学で解明できない事例もあるんだ、と思うとワクワクします。

CDだけじゃ売れない

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前回のエントリーに続き、今回はこれからの音楽の販売方法についてです。

こないだ、『良い音楽とは~』って話をしましたが、 科学技術の進歩によって、音楽はたかだか4MBの情報になってしまいました。 そして、その情報は誰でもインターネットを介して手に入れることができます。

さらに、iTunesっていう公式のプラットフォームができてから、 MDとかでなく、フォーマット化されて、 ネットワークを介して転送可能になってから、

CDっていう媒体は時代遅れなんです。

もはやCDというハードをわざわざ経由しなくても 曲なんて簡単にやり取りできるんですよ。 そんで、曲を再生するのも、 今やCDやラジカセ、MDプレイヤーを使ってる人なんてほぼいないじゃないですか。 そもそも、ラジカセやMDって今売ってるんですか?

わざわざCDをレンタルして、自分でPCに取り込むよりも、 iTunesでフォーマット化されたデータをダウンロードするほうが楽に決まってるでしょ。

まぁ、ここまでは一般に言われてることですね。

じゃあどうやって音楽をビジネスにすればいいのか? ここからは、わりかしオリジナルな考えのつもりで書きます。

前回も書いたのですが、もはや曲だけを販売するのは難しいと思います。 ただの4MBのデータなんてなんの価値もないんです。

だったら、その音楽をより楽しめるような『体験』を付与してあげるのがいいんじゃないでしょうか?

例をいくつか出しますが、 購買体験もモノの所有も貴重な経験だと思うので、 CDとかの媒体を元にして考えます。 (やはり既存の枠を完全に取っ払うのは難しいですよね。  想像する人としても、消費者としても)

例えば、CDに特定のパスワードが書かれていて、 SNSなどからそこへアクセスすると、 買った人限定の特典映像や音声が聞こえて、 ファンのみの擬似空間を作れたりとか。

例えば、ライブ用のタオルとかうちわとか 踊りの振り付け集とかつけて、 ライブをもっと一体感持って楽しめるようにするとか。

例えば、その音楽の世界観を表現したようなオマケ、 (昔あった、ちっちゃいカメラを覗いてボタン押すと パラパラ絵が切り替わるやつとか、 その曲の歌詞に出てくる壊れかけのラジオとか。 って、例が昭和ですかね。^^;)

そう考えると、AKBのあの売り方も、4MB以上の『体験』を 与えてるから売り方としては結構アリなのかもしれないですね。 まぁ、やり過ぎ感はあるし、 CDが捨てられるのを見るのはあまりいいものではありませんが。

AKBの弁護をするわけではないけど、 良い音楽って歌が上手いとか作者のストイックな姿勢とかよりも、 楽しむことが第一だからねぇ。 と『僕は』思ってるので。

それか、どうしてもストイックに音楽単体で 勝負したいなら、今まで通りでいいかもですが、 少なくともお金の問題だけはありますよね。

熱心なファンにパトロンになってもらうような プラットフォームづくりも面白いかもしれませんね。 「キックスターター」みたいな。 ただ、レーベルに所属するならそればかりも言ってられませんよね。(´Д` )

あと、 いっそデータ化しないでライブだけで楽しむ音楽もアリかな~ とか思いましたが、それは金銭的に厳しいし、 ミュージシャンとしては多くの人に聞いてほしいのがあると思うので 却下しました。

時代のせいか、音楽が多すぎてお腹いっぱいなので、 ただの自己表現でなくて、 聞く人を楽しませてくれるような音楽が出て来て欲しいものです。

参考文献

・音楽業界をダメにしたのは「レコード会社」じゃなく「アーティスト」だろ ミュージシャンとアーティストの違いですね。 大衆音楽とマニアックなのの違いというか。 ビートルズもアイドルだったんだよ、ってのは確かにそうなのかも。

・音楽「業界」が壊れたのは頭がバブル脳だからじゃないの? 調子に乗った音楽業界。

・音楽業界はなぜ縮小したか? もしドラ作者のブログ。 おじさんの意見も僕らと違ってておもしろい。

音楽と科学技術

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音楽の講義のレポートが思いのほかうまく書けたのでそのまんま公開します♪ いつもと違って文体が堅くて読みづらいんですが、大学のレポートだし、ちょっとくらい気取りたかったのでそんなカンジでお送りします。

科学の進歩に伴い、あらゆる仕組みがデジタル化され再構成されてきた。それは芸術・音楽においても例外ではない。 そして科学は、音楽そのものが波の集合であることを解き明かし、またそれを聴くわれわれ人間の聴覚・感覚についても解き明かしてきた。また、デバイスの発展により2つの大きな革命が起きたと私は思っている。一つ目は音楽を録音し、好きな時に再生できること、これにより、音楽はその瞬間のみのものではなくなった。これにより、音楽を聴く人が劇的に増加した。二つ目が、機械上で音を作成し、曲を奏でられること。これにより、音楽を奏でる人が爆発的に増えた。

これらの急激な変化の中で、私は、『良い音・良い音楽とは何か?』を再考せざるを得ない。

例えば、一般に楽器の生音が一番良いと思われていると思うが、本当だろうか?ストラディバリの音が最高だと言っても、その音の波形を観測し、それ通りの音を再現することはもはや可能である。さらにそこから雑音と思われる周波数帯を削除することも容易だ。さらに言えば、奏者に依存せず正確な音を奏でることや、音量の調節・音の反響具合をシミュレーションして奥行きを表現することすらも可能である。

例えば、音楽にはそれぞれにリズムがあり、それぞれのある程度パターン化したリズムで複数人が合奏するが、機械であればお互いに寸分違わぬタイミングで奏でることも容易である。ただメトロノームのように機械的に打つのではなく、後ろノリやタメ、音符の切り方など色々な方法でグルーヴを生み出しているんだ、と主張する者もいるだろうが、個別にタイミングをずらして人の演奏そっくりに再現することだって不可能ではない。こちらも先ほど同様、奏者の腕・コンディションに影響されず演奏できるし、何よりミスがない。

例えば、現実には不可能な演奏も可能である。生身の人間では物理的に間に合わない演奏や、場所・設備の問題で演奏できない、といった問題もなくなる。演奏中にチューニングを変えるなんてもはや何の問題もない。過去の偉人の演奏すら再現することが可能なのだ。 例えば、人間工学などを用いて、人間の耳・脳にとって最も心地よい音楽を作ることも可能かもしれない。また、既存の音楽をより優れた(耳当たりの良いという意)音楽に作り替えることも可能だろう。

これらの要素を踏まえて、再度先ほどの問いに戻りたい。

『良い音楽とはなんなのだろう?』

これだけ優位性を挙げても、デジタル化された音楽よりもライブ・生音が重宝される理由はなんだろうか?

答えとして、「デジタル化された音源には魂がこもっていない」などといったことが挙げられるかもしれない。確かに、ライブは独特の気迫を感じられる。しかし、デジタルがそれに劣って無機質だとは私には思えない。CDの録音においても、何度もリテイクを繰り返し、そのメンバーが出せる最高の演奏を録音しているのだろうし、音を人工的に作る際も、普段の演奏以上に細部にこだわり作りこんだ努力の結晶だろう。人が作り上げたものに無機質なものなどないし、気迫の優劣もない。

また別の答えとして、「デジタル化された音楽はニセモノだ」という意見もあるかもしれない。音と音の繋ぎが不自然だったり、上手くチューニングしていないと耳障りな音になる。 しかし、それならどこからが本物だろうか?アンプやエレキギターを用いたからといってその音はニセモノになるのだろうか?『perfume』の声はニセモノだろうか?初音ミクと彼女らと何が違うのだろうか?

以上を踏まえて、私は、良い音楽とは音楽以外の要素で決まるのではないかと思う。例えばコンサートホール・ライブ会場といった場、生身のミュージシャンが自分のために演奏してくれるといった優越感、同じ空間にいる人達、聴く時の自身の感情などである。また、特定の曲への思い出もまた、その曲を名曲にする。デジタルだから良くない、間違えたから良くない、といった音楽単体のみでは曲の良さを測れないところが音楽の奥深さであり、面白いところだと感じる。

自己の証明

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以前書いた、攻殻機動隊の世界の続きです。

こないだ、自己の存在をどう証明していくかって話で 終わったかと思いますので、 そこから続けて、 日本と西洋との思考の違いを簡単に書きます。 別にどっちが良いとかっていう話でなくて、 自分の考え方の参考にしてくれればいいなと思います。

まず日本から。 島国で一民族国家なので、良くも悪くも仲間意識が強いです。 そのため、判断基準が外にあります。 自分らしくとかよりも協調性が重要とされるため、 周りに合わせる形で行動をします。 基準が相手に依存するのです。

そこが日本の特徴、強みでも弱みでもあるのですが。

強み:

  • 相手の気持ちを汲み取ったり、社会に貢献できるようなコトにやりがいを覚える。
  • 常に他者からのフィードバックを得るコトで成長していく。

弱み:

  • 主体性がない
  • その場の雰囲気に流されやすい
  • 自分の信念を貫くという真剣さに欠ける。

自分の存在理由を、他者にどれだけ影響を与えられたか、 心に残してもらえるかで捉えるタイプです。

一方西洋では、自己によるところが大きいです。 『我思うゆえに我あり』っていうシンプルなロジックです。

強み:

  • ものすごいスピードとバイタリティを持つ。
  • 不惑の精神

弱み:

  • 相手の気持ちを汲み取るのに欠ける。
  • 自己満足に陥ることが多い(?)

こちらは、 『自己の証明なんて、自分で納得してればそれでいい!』 って考えです。シンプルで強さがあります。 ここまで思い切り良く考えられたら人生ラクなもんでしょう。 きっと鬱とかならないよね。

こう見ると日本の方が良い人なような気もしますが、 出る杭は打たれる的な雰囲気や、 期待に応えられず自殺…なんてことも多いのがありますね。

どちらがいいかを考えてみることで、 「ぁ、私ってこういう価値観が根底にあるのか。」 なんて感じで参考になればと思います。 また、弱みも当然あるので、 失くせとは言わないけど意識しておいたほうがいいと思います。

(マジメな文体は疲れます^^;)

ノマドってかっこいいの?

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安藤美冬さんが話題になってますね。 ただ、今日はそれについてじゃないです。

ノマドって今どきの働き方で取り上げられてるけど、 ホントにかっこいいの? ってはなしです。

まず、ノマドって効率良くないよね^^; 普通に会社行った方が、資料やら設備もそろってるし、 仲間同士でミーティングとかすることもできるじゃん。 会社行かなきゃ仕事できないのは問題だけど、 効率を求めるなら、基本的には会社に行った方がトクです。

でも、わかります。 そういうことじゃないんだよね。 出社時間とかルールとかに縛られず、 クールに仕事したいんですよね?

カフェで仕事するとかなんかカッコイイって思ってる人多いけど、 コーヒー一杯とかで長時間居座るのも迷惑だし、 周りウルサイし、机大きくないし、 もしかしたら電源ないし、 って考えたらあんまりクールじゃないよね。

それらを解消するためのカフェとかもあるけど、 それにわざわざ行くくらいならおとなしく会社行けば?とか思います。

『優雅でオシャレな働き方』だと思ってる人は ぜひ目指してください。 ただ、うわべの薄っぺらいオシャレさに釣られちゃう人は そもそもあまり仕事できないのでは? なんて毒舌も吐いときます。

(なんか、ノマド批判ってかカフェで仕事する人批判になっちゃった…)