※過去記事です。
さて、今日はこの本です。 最近、本のレビューを上げられていないのですが、別にサボっているわけじゃなくて技術書とかやたら難解な哲学書に時間を取られてるからです。普通の本と比べてこれらの本は全然読み進められないですね。。。
※過去記事です。
大きく以下の3つについてです。
※過去記事です。
※主に同期向けです。
昨日の内容を三部構成にしてまとめます。 何か意見などあればコメント、もしくはリアルで声掛けしてください。 『鉄は熱いうちに打て』ってやつです。誰かさんじゃないけど、前向きな議論ができるようになりたいので。(既に一部でやってますが。)
津田メルマガvol.95【南場智子が語る経営のキモ、原研哉が明かすデザインの着想法】
漫然と読むのもアレなので、ちょっと時間を捻出してまとめてみることにしました。まぁ簡単に備忘録程度です。非常に面白いメルマガなので、興味を持った人は購読してみては?
南場智子×津田大介 対談
マッキンゼーのコンサル出身なのは有名な話ですが、Webサービスをクライアントに勧めていても、コンサルは実際に動けないから少なからずストレスだったようです。
で、会社を興してこのかた、会社を『社会の公器』にしたいと考えているそうです。ご自身が一度離れたのも、夫のこともあるけど、自分のてを離れても成長できる組織になってほしいから。
人を雇うときは、その人の人柄の透明性や思考の独立性を重視する。見ていればだいたい伝わってくるものだとか。で、これだと思った人には口説き落とす。損得でなく信念で。泥臭く。
社員との接し方について。会社の上下関係と人間としての上下関係は違う。叱る・褒めるでなくて、クレームを言う・感謝する、を心がけている。
当時からIT企業のコンサルを務めていたからこその成功かもしれませんが、本人はコンサル時代の経験は役に立たなかったと言っています。 まぁ100%本当ではないのでしょうが、実際はロジックや数字なんてあまり意味はなくて、どれだけ自分が注力できるかにかかっているようです。人を口説き落とすときも同じで、ロジックなんぞ詰めてたらまぁ普通は勝てないのですよ。
理屈の外にあるものでも人は動くし、世の中も意外とそうやって回っているんだなと感じました。(もちろん、ロジックを極めた上での発言なのでしょうが)
津田大介と原研哉 最小単位で伝える(過去記事)
日本は工業立国の立場を新興国に渡して、モノでない価値を作り出していかなければならない。
家も同じ。ただの物質から、より主体的な、自らの居心地の良さを追求して行く過程にある。
ニーズに合わせると、短期的な得に流れがち。人としてルーズになっていく。
自分の中のカオスが高まるほど、いろんな問題の本質が見えてくる。その直感を人に説明する時に使うのが理論。
長期的な欲望は、こちらで示してあげなければ人は認識できない。それはデザインで欲望をエデュケーションすること。 デザインすることで、使い手側が明確になる。なんでもありは良くない。Twitterは最小単位、エッセンスだけでコミュニケーションできるのがいい。 しかも情報が流れて行く。デザインというのは、相手に誤解なく伝わること、それには引き算も必要感情のコミュニケーションが増えた。ブロトコルを定義した感じ。lineも同様かと。
僕は、『デザイン』は相手に自分の考えを正しく伝える手段だと思っています。(別にキレイなものを作ることだけがデザインじゃないので) Twitterを例に上げますが、140文字しかないこと、情報が勝手に流れていってしまうこと、これらのデザインが功を奏したという声が多いです。これが文字数も無制限、いつでも過去の記事が見れるし、まとまっている、となると情報は溢れ、ユーザーは情報の食あたりをおこすでしょう。そうならない『ちょうどいい』調整をデザインしてるところがミソです。 他の全てのものも同じで、ユーザーは自分の本当の欲求・理想はわからないものです。そんな深く考えないから。だからといってユーザーの声に耳を傾けていくとガラケー的なことになるのは承知のとおりです。じゃぁ、アレもできるコレもできる、といったカオスな状況から、ユーザーの思考を整理してあげる。必要とあれば引き算をしてあげる、これがデザインの役目です。 基本的にモノや情報は溢れかえっているんです。それを見やすく・使いやすく統合していくのがこれからのメインの仕事になるんじゃないかと思います。
なぜネット選挙がイマイチ浸透しなかった、影響が少なかったのか。メディアの情報量は多かったんだけど複雑すぎるから。しっかりした意見であっても実行されなければ意味がない。こんな状況では、政策の是非をいちいちチェックしたくない、しかもどうせ守られない、だからイメージで投票するのは当たり前。
加えて、日本では政策を議論することは候補者にとって得にならない。政党の権限がでかすぎるから。党意と異なる発言は容易に罰せられる。政治家が容易に発言できない機構ができている。なぜこうなるかというと、政治家個人は、いちいち個別の法案に対しての知識をつけて自主的に意思決定を下すのが容易でないから。政党としては、票数が確保できる方が発言権が高まる。つまりは政治家なんて誰でもいい仕組みになってる。
とはいえ、情報発信の土壌も必要性も高まってきた。今後は情報発信しない政治家は、できるのにしないと取られることになる。この風潮は大きいだろう。それを危惧したとて、当たり障りないことを発言すればすぐにバレる。
政党制度の仕組みは中からは変わらないでしょう。資金の関係もあるし、師弟関係とかイロイロあるだろうし。別に悪いとも思わないけど、より良くするためにはどうしたらいいのか。国民レベルで言ったらやはり言動をチェックしていくしかないでしょう。情報が多すぎてわかりにくいというのならまとめましょう。ホントに必要な情報なんてそうそう多くないでしょうからね。
特に意味はなく。
さてこの本、見て分かる通り、96年に書かれたものです。が、これまでの大量消費の時代の反省と、情報化社会の到来を予見したかなり先進的な本です。 まぁ今となっては古い内容なのですが、現代においてもあてはまるそれなりに普遍性を持った内容なので、ここで紹介します。
まず、これまで(〜1990年代)の経済のモデルを振り返って。
消費社会の繁栄は、戦後において戦争特需に依存しない成長モデルとして成長してきた。松下幸之助は、これを『平和・幸福を通しての繁栄』と呼んだ。当時からしたらなんと画期的なモデルに見えたことだろう。争わなくて済むのだから。
世の中にモノが出回り、モノが足りる時代になるとモード(流行)が生まれた。 これは自己否定(過去の自己の否定)を通して新しいものを世の中に売り出し成長していくモデル。 例として、自動車業界において当初はフォードが圧倒的で、世の中に自動車が普及した。するとただ機能としての自動車以外の要素がほしくなった。 そこにGMがカラフルな車種を揃えて台頭し、フォードは衰退した。その後GMは定期的に様相を変えて売り出していった。
ファッション業界は特にその移り変わりが早い。去年の流行はもう古い、と自己否定して新しい流行(モード)を売っていく。 必要を根拠としないモノは美しく・魅惑的なければならない。 数々の広告とともに、消費者の需要を喚起していく、無限に湧き出る供給のために。消費のために。
需要の有限性、供給の無限性を、自己創出・自己否定で乗り越えてきた。 モノが動けばお金が流れる、するとGNPは上がっていく(見かけ上ではあるが)。すると収入が増え、さらにモノを購入するようになる。
農薬は、もはや必要以上に、それを消費することを目的として巻かれていた。 農薬は害虫だけでなく天敵や鳥なども傷めつける、すると翌年にはまた害虫が現れる。自然に任せるのと違い、無限に先に進まねばならない。 消費のための消費は無限に続いていく。見かけのGNPはどんどん増える。
日本における水俣病などの公害も同じ。当時の池田政権の『所得倍増計画』のもと、被害の声はかき消され経済の発展が優先された。 フロンガスも当時安全とされていた。が、フタを開けてみると強烈な紫外線で南極付近にオゾンホールが空き、現地の生物は苦しんでいる。
時の政治は、内の発展のために鳥や公害の被害者を自分たちの外に追いやった。
(感想:この辺り、佐々木俊尚さんの『レイヤー化する世界』のウチソトの概念と酷似しています。 サンデル教授の本でも、自動車の制限速度から換算すると人の命は200万くらいになる、とされており、現代でもウチの発展のためのソトの差別化は起きています。 車の例では、自分(家族)の200万相当の利便性のために人の命をないがしろにする行為かもしれません。 また原発も似たようなモノかもしれない。都心の、東電の発展のために東北はソトに追いやられたと言えるのかも。。。)
このような構造はあくまで内にのみ見られるものです。本来は
(大量採取)→大量生産→大量消費→(大量廃棄)
この()の部分は外から調達しています。が、当然モノ(資源)は有限であるし、廃棄先は汚染されていく。これまでは自国の発展に注力するあまり、外部にそのツケを回して放置してきました。間に中間業者などを挟んで、不可視な構造を作って、罪悪感を分散してまで。
この仕組みのなかでは、内が栄えれば外は貧しくなります。貧富の差をそこに見出す。外を差別する、支配する。 貧困は金銭を持たないことでなく、金銭を必要とする仕組みの中で金銭を持たないこと。先進国が資本主義を持ち込んだから貧困とされてしまった。自分たちが育てた食物すら安値で買い取られ、わずかなお金でものを買わなければいけない。飢えは治安の悪化や教育の低下を招き、さらに落ちていく。
これは何も国外に限ったことではない。国内でも同様に外は存在する。当然資本主義の世の中で、土地は高騰し、公害も起きる。その対象者は外の人とされた。
それらを踏まえてこれからの世の中
大きく2つ。
消費のために需要があるんじゃない。逆だ。需要を満たす分の供給があれば十分だ。とする考え方。
情報の伝達による繁栄。ハード(モノ)に依存するから有限性を含んでしまう。ソフトならば複製・輸送にモノは(一般には)介在しない。そのため無限の拡張性がある。 コンテンツとして。効率的なシステムの設計情報として。情報は人々に価値をもたらす。
内と外を区別して搾取するのではなく、自立共生的に生きる。ソフトを広く普及させ、有限な資源を有効に使う。
(感想:これもまさに『レイヤー化する世界』の描く構造そのままです。当時PCもあまり普及していなく、Googleやニコ動のない時代にここまでの構想ができるのは天才という他ありません。これからの世の中、単純な経済成長だけ追っても仕方ありません。これまでの消費社会の反省を活かして、真に(グローバルな)社会が良くなるように、その一端を担えるようになりたいですね)
震災の二年後の3.11に公開された曲です。こんだけドラスティックに直接的にじゃないけど、これまで外が受けてきた差別も似たようなものかと。
マトリックスは映画のソレです。 僕の思考の起点になることが多いこの作品ですが、マトリックスも攻殻機動隊からインスピレーションを得たとか言ってた気がするので、とりあえず攻殻機動隊はスゴイね。
で、俗にいうゲーム(テレビゲーム・PCゲーム)は、古くはマリオから、今はパズドラや艦これなんかがメジャーですね。
よくバッシングされがちなゲームですが、僕個人としては悪いものだと思いません。 …ずっとゲームが続く・醒めない分には、ですが。
冒頭にマトリックスの話を出しましたが、あの世界は、五感を支配された一種のバーチャル空間、つまりゲームです。五感全てがコントロールされた状態では、人はゲームから逃れることは出来ないし、また逃れようとも思わないでしょう。一生終わらないゲームです。そうなれば忌み嫌う理由はないでしょう。
現実(≠マトリックスの世界)を顧みても、生命の維持のための衣食住(療)という心配がなければ、一日中ゲームすることはむしろハッピーだと思います。 ただ、現実として肉体がある以上その心配はつきまとうものです。全人類がゲームに走ったらすぐに食べ物はなくなるでしょうし。(まぁ、そんな心配すらしないくらい面白いゲームがあれば幸せなまま死ねて良いと思いますが。)
さて、何が言いたいかというと、衣食住など生命維持以外は全てエンタメです。ゲームも例外ではありません。 「周りの人が幸せになれるように」などと言ってるのにゲームを嫌うとか意味がわからんです。みんながなんの心配もなくゲームで楽しめたらもうハッピーじゃないですか。ずっと終わらないゲームが
趣味を変えさせるのではなく、多様な趣味を認めてそれに熱中できるような、生命維持の心配なんてさせないような、社会になればみんなハッピーなんじゃないかと。(ちょっと宗教っぽい気もするけど。)
この曲聴いて考えた思考の切れ端です。 バーチャルで充実してればそれだけで幸せでしょうよ。ずっと終わらないゲームならね。 <iframe width=”350” height=”250” src=”//www.youtube.com/embed/t_O-I5us3NU” frameborder=”0” allowfullscreen></iframe>
実はまだ全部は読んでいません^^;
が、だいたい内容はわかりました。要は、「何のために事業をやってるかを誰でもわかるように話せ」ってことです。 よく言われる、「what」じゃなくて「why」を考えろってやつ。誰に対して、どんな価値を提供することが我々の役目か定義しろということ。
かなりのボリュームでしたが内容はそのくらいでした。(具体例がいっぱいあるのでそこは別で楽しめましたが。)
読んでおいてなんですが、この本は誰向け?どんな人が読むのだろう?(ちなみに僕は勧められただけです。。) 事業をしてる人だったらこんなこと言わずもがなだと思うし、普通のリーマンさんたちがバラバラなストーリーを語りだしたら収拾つかなくなると思うんだけど。
さて、この本とは少し逸れるかもしれませんが、僕が何か事業を興すとしたらどう考えるかを少し。
まず、ストーリーというか、何を目標として事業を興すかは当然考えるでしょう。それはもちろん、「○○を売る会社を作りたい」とか、「メディア企業が作りたい」とかそんなもんじゃないです。何をもって人に価値を提供できるか?どんな問題を解決できるのか? IT企業だとしたら、ソフトウェアを売るのが目的じゃなくて、そのソフトウェアでお客さんがどう良くなるのか?
ついでに言うと、もし既にそれについて先行している企業があったら、僕は事業なんてやらないです。競争が激しいからってのももちろんですが、
「もうやってくれてるから」
目的はあくまで問題の解決や価値の提供で、それを他がやってくれてるなら万々歳です。何を邪魔する必要があるのか。 そういう意味で、もし自分たちが何か新しい事業領域を開拓したとして、それを他の企業が追随してきて同等のレベルまでなったら、僕は自分でやる意味が無いので譲ります。
独占を防ぐために、というのもわからなくないですが、それなら独占企業が調子乗りだしてから止めに行くので十分です。
こう考えると、「他社との違いを明確にする」とか、「ただの数値目標じゃなくてストーリーを描く」なんてのは何を今さら、としか思えません。 半沢直樹じゃないけど、会社を維持するために働いてんじゃないんだよ。顧客の役に立てるから頑張ってんだよ。
たぶん最後まで読まないだろう本でした。
幸福は定量化・数値化できるのか?という問題に対して全力で取り組んだ本書。人によっては「何勝手なこと言ってんだ!ふざけんな!」などと怒ることになるかもしれませんので、予め忠告しておきます。だって、本のサブタイトルがもう喧嘩売ってるもの。
少なくとも、優先順位はつけれそうですね。ミカンよりリンゴの方が好き、という人が多ければ、一般的にリンゴの方が幸福度が高められるのでしょう。 もちろん中には、「俺はミカンの方が好きだ!」なんて人ももちろんいるし、「どっちも嬉しくない」なんて人もいて、人によって幸福度の上がり方は異なるのは当然です。
「幸福なんてひとそれぞれだろ!それを研究して定量化してしまうなんてバカげてる!」という人もいるかもしれません。しかしよく考えて下さい。
『人による』と言ってしまっては何も始まりません。法律や社会秩序において、『考え方はひとそれぞれだから』なんて言ってしまっては社会が回らなくなります。仕事も全てそうです。IT化が進んでハッピーになる人もいるけど、職を奪われたりする人も当然います。車は事故る可能性があるのに、大勢の人が乗っています。
ある程度の平均値を考え、それを最大化することを目標にしながら、例外をきちんと許容すること、これが政治の役割、社会の在り方じゃないでしょうか。その最大化のためのロジックがあるのなら、ぜひ参考にしたいじゃないですか。
それでは本書の細かいところに移りましょう。
自分の収入が増えたら、もちろん人は嬉しくなる。なら全国民の所得を増やせばいいじゃないか、と考えると、それも違うらしい。貧乏というのは相対的なもので、全ての人が豊かになったということは、実は誰も豊かになってないのと同じことになる。
僕らはお金をたくさんほしいんじゃない。「周りより多くほしい」んだ。
他にも、犯罪が多い地域ほど犯罪被害者の不幸度は少なく、その他の人の幸福度も小さい、というデータがあります。 要は、犯罪の被害に遭うことは確かに不幸なのだが、みんな被害にあってるならそんなに気にしない。事象それ自体でなく、それが当たり前なことなのかどうかで抱く幸福度は変わるから。
仕事も同じ、体重も同じ。ただし、その基準が甘くなると人は努力をしなくなる。周りを見て自分と大差なければ何も焦ったり頑張ったりしないよ、だって疲れるもの。その結果、肥満者は増え、失業者も増え、効率の悪い仕事ばかり回っていく。世の中はこういうものらしい。
メディアを用いた実験で面白い結果が得られました。とある価値観の放送を長い間聴き続けた人は、自分の価値観は変えないまでも、世の中の基準はそうなのだと認識し、許容するようになったというものです。 他のボランティアの実験でも、行為の倫理的な正しさを訴えるよりも、「みんな協力してくれた」ことを訴えたほうが行為をしてくれる人が増えたそうです。 個人の信念を変えるのは難しいが、世論や世の中の基準を変えることはできる。人は理屈よりも同調意識で動く生き物である。
結局人は相対的にしか判断出来ない、ということをはっきりと自覚し、幸福を追い求めすぎないことが大切だと言えます。 一度幸福を手に入れてしまったら、それ以上を求めてラットレースになるだけなのだから。人は幸福を求めるがゆえに不幸になる。それを解決するには、中道を行くこと。幸福を与えてくれるものにしがみつけば将来不幸になる。心の内側から幸福を描き出すことが大事。 (計算式、なんてものから離れてしまいました。)
子供がいることは夫婦関係にとって、個人の幸せにとってマイナスだというデータがあちこちである。子どもを産むと、一年以内にはもう、95%の人の幸福度は生まれる前より下がっているとか。 そしてその下がり具合に慣れるのが5年後くらいらしい。まぁ子どもを持てる代わりに世話に時間が取られて、精神的な安定も、夫婦の時間も、友達付き合いの時間も減ってしまうのは理屈ではわかります。 が、それを指摘すると大抵の親は反発しますよね。。。 まぁ、離婚率35%とかいっててもウチは大丈夫、って言うようなものでしょうか。後戻り出来ない選択をした後は、それを正当化しようとする意思が働くものです。
じゃぁ、まだ子どもを産んだことないけど産みたい、って夫婦はどう考える?産まないほうが幸せになれるよ、なんておせっかいを言ってもまぁ聞かないでしょう。理由を聞いても、まともな理屈の答えは返ってこないでしょう。
「人は子供を生むものだ」とか、「次の世代がいなくなったら社会が成り立たない」なんて言うのはナンセンスです。 自分の子供を、社会のために人として必要に迫られて、産みたいと思う人なんてほとんどいないでしょう。 だから産むなって言う訳じゃないんですが、産んだ後の責任が問われる事が多い昨今、もう少し考えて、幸せは減っちゃうかもしれないけど産みたい、と思えて初めて産むとかしてほしいなと思います。
時間は幸福も不幸も風化させてしまう。生まれながらの美貌や障害も、あまり影響を及ぼさない。もう慣れちゃったから。人はプラスの感情に特に慣れやすい。マイナスの感情も少し遅くはあるが慣れてしまう。
感情を想起するのは、そこに注目するから。何かを感じ取ろうとするから。逆に言えば、理解すれば注目はなくなり、感情の変化もなくなる。例えば人が死んだ時に、葬式を行うことで、理屈ではっきりと死を理解できる。そうすると感情を乗り越えられることが多い。
逆に日々感じざるを得ないこと、注目しなければいけないことは長く感情に影響を与える。失業者はいつまでも不幸な感情が残るものらしい。それは社会的なステータスだったり、これからの生き方を考えなければいけないから。
政治の存在意義は、言ってしまえば地域レベルで幸福の最大化を行うことです。政府は幸福度を考慮すべきですが、ただしそれは幸福指数を元にしろと言うわけではない。 短期的な幸福を求めて耳障りの良いことばかり言うのではなくて、長期的な最適解を示さなければいけないと思います。そのためにこういった計算式も参考になるかもしれない。
名前だけで買ってしまった。 内容はとても面白くて、ネットが普及してしまったせいでパラダイムシフトが起きてる、理想論的な話だけでなくてもっと現実を見ないとメディアは生き残れない、っていう話です。
大きく以下にまとめます。
ネット広告が普及してきたことにより、紙は購読者も減少気味で広告案件も減っている。
かといってネット広告は単価が安い。アメリカでは、
紙:PC広告:モバイル広告が
100:10:1
の単価感らしいです。
ネット広告はアドネットワークという広告最適化サービスがありますが、誰でも使えるものは単価も落ちる。どこぞの2ちゃんまとめサイトと同じような収益になってしまうわけで、需給バランス的に広告枠の供給が多すぎるのが問題です。1PVいくらとかなると、PV至上主義になりますし。
じゃぁどこで差別化するかというと、ブランディングか独自のデータ活用なのです。 (ちなみに、PVを増やす施策からブランディングは難しいが、単価上げるブランディングからPVはなんとかなる例が多いです。)
アメリカなどは、規模や流動性から様々なトライアンドエラーをしています。生き残りに必死で、だいぶリストラとかも行っています。後述しますが日本は、雑誌はボロボロつぶれてます。新聞はしぶとそうです。
マネタイズには色んな種類があります。
前述のとおり、ブランディングが独自データが必要です。ブランド力があれば、媒体から純広告をもらったり、広告記事などで収益化することが出来ます。独自データは、主にユーザーの特性分析で、事前に会員登録などさせることによって、より細かいユーザーに広告をリーチすることが出来ます。
アメリカはフィナンシャル・タイムズを筆頭に、メーター制が人気のようです。(詳細は省きます)日本ではニコニコ動画が課金で成功していますね。 要はライトユーザーは無料で、ヘビーユーザーへは課金、といった形が主流に思えます。ちなみにこの課金モデルは一般には、紙の実績があること・経済系、富裕層向けのジャンルであること・圧倒的な読者数を持っていること、が必要のようです。例えば筆者の属する東洋経済だとまだ読者数が少ない、まとめサイトなどは、扱う内容が金払うまでではないため課金は上手くいかないでしょう。
メディア人たるもの、できるだけたくさんの人に記事を読んでほしい気持ちはありますが、いかんせんビジネスだというところと、人は無料記事は価値は薄いと判断し読み流す傾向があります。
紙の頃は、パッケージで売っていました。記事単体でなく総合的な媒体の信頼性で。 ネットは縦横無尽にあちこちの媒体の記事に飛べます。そこでは記事単位での競争が起きます。そのときに質や信頼を担保するのは、誰が書いたか?です。
更に言うと、紙は客観報道や曖昧な表現が好まれますが、ネットはより感情的な、断定的な表現が好まれます。ぶっちゃけて言えば客観報道は書くのが楽ですが、そんなのはどこか一社がやれば十分で、残りは独自の色を題していく必要があります。
アメリカのとある媒体では、PVやユーザー数など全ての情報を可視化し、成績に応じた待遇へと変わりつつあります。つまりその媒体に属していればいいわけでなく、その中で競争をする必要があるということです。 さらに言えば、競争相手は同業だけとは限りません。ネットは双方向のメディアで、いわゆるブロガーさんや、著名なビジネスマンとかも文章を書きます。しかもそれが独自の視点や知見を持っていると非常に強い。専業の記者といえど平凡な内容では生き残れません。
これからの時代に必要なのは記者より編集者、読者目線の人。 というより、『記者』というスキルが必要なことはあまりなくて、事実の客観報道は一部で十分、その他は第二報で差をつける必要があってそれは読者のニーズを察する能力であったり、豊富な知見や独特の視点が必要。 また、媒体に応じて表現方法を選び変えられる能力も求められます。
加えて、テクノロジー・ビジネスに関する造詣がないと、このパラダイムシフトに飲み込まれてしまうでしょう。頭を使えない駒を雇用する余裕はもうないのです。
さて、だいぶムチャぶりでしたが、これらを満たすためには、教養をつけること、自分の思考を深めること、文章力(≠記者力)を磨くこと。
参考までに筆者は、教養や文章力は古典から学ぶのが良いと言います。また自分の思考を深める時間を作ること、そのためには孤独を苦としない精神力の人がいいと。
紙の意義はデザイン性やパッケージ性。さらに言えばデジタルが苦手な世代もまだまだ多い。ファッション系などは生き残りそう。
色々不安を煽ってますが、日本の新聞社とかで改革が起きないのは、現状まだ食えてるから。 ゆうて日本の宅配システムが優秀すぎてなかなか購読者は減らず、いざとなれば不動産資産もたくさん持ってるのでまだ生き残ります。そうなるとイノベーションが起きない。起こす必要がない。
大手サイトでも一億PVいかない。東洋経済オンラインでも5000万少し(それで経済系トップらしい。) アドネットワークだとせいぜい1PV=0.1円とかなので、これだけじゃ維持できない。
公平な情報発信のために、昔からビジネス(主に広告)と記事はお互いに独立していなければ、という意識がありました。それはもちろんなのですが、全く考えなくていいわけではありません。 むしろ現状では、ただ記事を書けるだけような人材の価値は下がってきています。自分勝手でなく、広告主に媚びるでもなく、消費者に必要とされるような情報を提供していかなければ生き残れなくなってきたのです。
そもそもなぜネットにここまで翻弄されるかというと、だいたいの媒体は、ただ情報を伝えるだけで、それは物理的なメディアを用いるより、ネットに乗せるほうが合理的で、理想の状態といえるから。 ここでうまい具合に淘汰されて、あるべき姿になる、良いものが売れて人気を集める時代にしたいと思います。優秀な記者や製品、広告といったものが評価される時代に。
マッキンゼーの人事で十数年働いていた人。 全体を通して、日本の社会におけるリーダーシップの認識のズレについて述べています。
自頭のいい人、知識が豊富な人、協調性がある人。 悪くないがグローバルスタンダードじゃない。
マッキンゼーの採用基準は、答えを出すよりもまずは思考のプロセスを図って、その人がどれだけ深くまで考えることができるか、リーダーシップを発揮できそうか、などのポテンシャルをみているそうです。
知識や経験はあくまで手段にすぎなくて、それをどう成果に反映させるかという目的意識と思考力がもっと大事ということです。
広い知見があれば、やることがより明確に見えてきます。 また、リーダーシップは全員に必要な能力と言っています。目的を持っていれば進む方向も定まるし、わがままに自説を押し通すこともない。 日本のことわざに『船頭多くして船山に登る』などという皮肉がありますが、ここでの船頭は、自分の主張を押し通す人であって、リーダーとは違う。 要はリーダーシップとは、全体最適を考えられるかどうか、自分ごとと捉えられるか。 自分の人生の主導権を握れるかどうかだと思います。
中央集権的なシステムは、価値観が似ていて結果が想定しやすい場合には機能していた(戦後復興期の日本はその状態でした)。 が、今や衣食住は満たされつつあり、メディアも増えたため価値観が多様化していて、中央集権的なシステムでは間に合わない。つまり、個々でのその場の判断が求められる時代です。
仕事をする上で重要な事を追加で。
→理想を置かないと、そこから逆算して日々の行動に結びつけることができないし、価値観の異なる人達に同じ方向を向かせることが出来ません。
→会議で発言しなければ、そこに参加した意味が無い。会社にとってただのお荷物になる。他の仕事も同様で、常に自分が成果に繋がるような言動を意識し続けなければいけない。
→客観的で中立的な意見など、誰でも考えられるしつまらない。自分がどうしたいか、どこまでリスクを取りにいけるかなどを考えた上で素直にコミュニケーションをとる。
日本では、『自分の始末は自分でつける』という価値観があり、それは日本人の美徳だけど、ビジネスの場でそれを優先すべきかどうかは微妙です。自分の美徳を貫くことじゃなくて成果を出すことが目的だからです。