決断力

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決断力 (角川oneテーマ21)

もはや懐かしい羽生さんの本。Kindleで安かったので改めて読んでみました。 才能の話と情報の話になるでしょうか。

集中できるかどうかは才能

  • 集中できるかどうかは才能と、どれだけそのことが好きか、夢中になれるか。好きになるためには広く知った上でやはりそれを選ぶくらいが良い。

→あることを極めるにはやはり集中できるかどうかは重要です。もし今の環境が集中できないんだとしたら、どこかで夢中になれていないんだと思います。一度外を見回して、「自分の本当にしたいこと」を考えてみるといいかもしれません。

仕事にならない、とか誰もやってないし、とかでなく、「夢中になれること」からスタートしてなんとかそれで食っていく方法を探していくのも楽しそうです。

  • いきなり深い集中はできない。集中できる環境を整える。余計な考えを排するなど。

→ほっとけば集中できることもないようです。常に複数のことが頭を占領していたり、外部の刺激が止まないところだと集中するのは難しい。 なるべく頭の中に余計な物事を入れないほうがむしろ生産性は上がりそうです。

  • 勝とうと思うとモチベーションの維持は難しい。みんなやってるから諦めたくなる。

→勝つことがモチベーションでも悪くないんだが、つまづいたときに立ち直るのは難しいかもしれない。 純粋に「好きだから」とか「やりたいから」とかの方が邪念なく没頭できるのでは。そうなれるものを探せると楽しいのでは。

情報量が直感を磨く

  • 昔の棋士より今の方が強い。技術が進歩しているから。新しい手はすぐに真似される。将棋では真似することは容易い。

→本書のころでもコンピュータの波が来ていて、ネット上で色々な指し方を学べるようになっていたようです。 知識量が多いとやはり単純に強くなれる、これは科学とかでも同じですよね。現代の僕らは相対性理論や地動説なんかを知っている、教えてもらえる環境にいるわけなので。

  • 近道は直ぐに対応できなくなる。真似されるし。大事なのは試行錯誤のプロセスを積み重ねること。コンピュータに残ったものはあとから再現できる。効率良く思考プロセスが探れる。

→ただ、みんなが情報を享受できるようになるとそれだけでは差がつかなくなります。 そもそも大事なのは試行錯誤のプロセスを経て自分の経験とすることであって、情報を得ること自体ではありません。ネットや本などは、あくまで自分の経験を効率よく積むためのツールであるという認識があると良いかと思います。

  • 直感がいかに大事か。論理化されていなくてもこれまでの経験が生きてくる。

→決断というのは直感とも言い換えられるでしょう。ただデータが与えられて迷いようのないことなら決断はいらないから。人によって判断が変わる事案だから決断と言われるのでしょう。

決断力を磨くには先の試行錯誤のプロセスをひたすら積むことです。知識があってもイレギュラーには対応できないし、直感も身につきにくい。経験とすることで、論理化出来ない部分で閃く。他人からみると決断しているようだが、本人からすると「説明できないけどなんかいけそう」となるのだそうな。

逆に言うと、経験のない人の直感は当てにならない。経験のない奴が直感を主張しだしたら警戒した方がいい。

成果を出せる考え方

  • 知っているほど不安や恐れが顕在化する。知識では、イレギュラーに対応できない。読み切っていればギリギリでも怖くない。

→情報や経験がありすぎると逆にリスクが必要以上に見えてきて尻込みしてしまうこともある。

ミスは起こる。不可避だ。戦況とは、盤面だけではない。場の空気なども影響する。情報の山に埋もれることが目的ではなく、きちんと利用する頭をつけること 。逆に情報が増えすぎているからこそ、選ぶ、捨てることが必要。

  • プロとは、同じことを極めた人ではない。成果をだし続けられる人だ。最善手は常に「現状では」の但し書きがつく。
  • 目の前の100%よりも、長期的に勝ち続けるのがプロ。

→あえてリスクを取りに行かなければ、挑戦し続けなければ、今は良くてもすぐに落ちていく。長期的にプロであるためには現状に甘んじずにもっと追求していく、その過程で必要であればこれまでの成果も捨てていくくらいの心意気がないと勝ち続けることは難しい。

東京都知事選2014 まとめ

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さて、東京都知事選が始まりました。 僕は一足先に投票してきましたよ。「誰へ?」ってのはこの記事を読んでもらえればおそらくわかります(笑)

貧困の現場

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貧困の現場

先日投稿した(書いたのは去年ですが)貧困大国アメリカとかぶる内容です。今回は日本の貧困について (2008年に書かれたものです、と一応。)

日本とアメリカの比較

貧困大国アメリカのルポも2008年だったので、同時期とみなして比較します。

ぶっちゃけ、日本の方はアメリカの貧困層と比べるとまだ甘いように思います。無効はカーストとまで行かなくても生まれた地域や親の経済力で既に大きすぎる差がついており、給食はジャンクフード、ご飯は薬品ガッツリのパン、働いても時給5ドルだし、契約社会なので、一度騙されると骨の髄までしゃぶられる。さらには軍の過酷な労働とイジメが待っていて、精神的に病んでも国民皆保険制度などもない。医者も信用ならない。

対して日本では、職を選ばなければ食べていけます。怪我をしても生活保護でなんとかなるでしょう。加えて、親が安定した職を持っていたりするケースも多そうです(感覚値ですが。。。)

あと、これは作者の書き方の問題なのですが、アメリカの方は淡々と事実を書き連ねていたのに対して、貧困の現場は「悪いのは全て雇用主だ」「僕らは被害者だ、同情してくれ」と感情に訴えているように感じました。

日本特有の問題

労働者側

ではなぜ、日本でワーキングプアが問題になるのか。これは日本人の国民性というか考え方に依るものだと思います。一言で言えば、無駄にマジメすぎ

学校で習うのか知りませんが、マジメにこつこつと生きていたら誰かが助けてくれるとでも思っているんでしょうか?生命の危機になっても仕事の方が大事って本気で思ってるんでしょうか?親や生活保護の助けを受けるのが死ぬよりみっともないことなんでしょうか?自分の生活もままならないのに、「自分が休んだら他の人が困るから」と無休でも働けるんでしょうか?

「美徳」「清廉さ」と言えば聞こえはいいですが、だったらグチったり同情してもらおうとするなよ。被害者ぶるなよ。

・・・いや、別に本書に出てくる人たちを貶したいわけでも馬鹿にしてるわけでもなくて、なんでそんな思想になったのかという話です。 学校教育のせいでしょうか? 親・社会の価値観の押し付けのせいでしょうか? 国外の情報が入ってこないからでしょうか?

全部あると思いますが、それがなんか中途半端で、目的なく方法論だけ身につけているような感じなんですよね。「真面目で純粋」大いに結構です。「プライドのためなら死ねる!」というのも思想としては否定はしません。ただ、グチを言ったり精神を病むのは、どこか無理してるんだろうと。徹しきれていないんだろうなと。

作中にあった、 > 人柄がいいほどボロボロになって辞めるのよ。

の言葉に代表されるように、「ムダに真面目」なのが原因ではと思っています。

雇用者側

また、雇う側もモラルが低下しているようです。 どこぞのワ○ミやUNI○LOなどが幅を聞かせている社会ですから。それで儲かるなら真似したくなるのもわかります。実際、どこの国でも人件費を買い叩けるならそうするんでしょう。

ここで日本特有の問題なのは、契約がなし崩しになることです。アメリカなどは訴訟社会なので契約はかっちりしていますし、破るとエライ言われます。一方の日本は、サービス残業に代表される「言わないけどよろしくやる文化」が横行しています。正社員の期待を抱かせたまま、暗に時間オーバーでも働くよう示唆して安い労働力を得る。大企業でも当たり前にサービス残業しているおかげで、「そういうもんなんだ」と思ってるんでしょうきっと。

(アルバイトに月給制で30万とか払って、代わりに毎日18時間労働させるなんて荒業もあります。年棒制の某企業とかもそうなんじゃないでしょうか?)

本書には書いてませんでしたが、「訴えますよ」とか言っても、恐喝されるか泣き落としされて気力を奪ってくるんでしょうよきっと。

オマケ

なんでこんな本を読んでるのかって? そりゃ、ワーキングプアなんてなくしたいし、困っている人には力になりたいじゃないですか。僕にとってそれは情報を与えて気付いてもらうことなんです。まずは自分が知らなくては何もできないですから。

蛇足ですが、「三匹のおっさん」というドラマが昔ながらの勧善懲悪ものですごく僕好みです。

思考停止ワード44

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ビジネスを蝕む 思考停止ワード44 (アスキー新書)

イノベーションやグローバル人材など、巷で流行っている様々なビジネスワードがある。 適切に意味を理解した上で使えていれば便利な言葉なのだが、流行っている分どうにも人によって受け取り方が違ったり、表層的にしか使えていないことがある。

本書ではそれらを総じて思考停止ワードと呼んでいる。

それらは何のために必要なのか?

技術力・イノベーション・コンプライアンス。 いずれも良く聞かれる言葉だが、言葉だけを追いかけている例が多いらしい。 それらは何のために必要なのか、どうなればいいのか、これらをはっきり言葉にできる上で使えているのだろうか?

頻繁に使われうる単語というのは得てして手段・体系化されたものであることが多く、個々で抱いている目的とは違う。技術力があったほうがいいのは全てそうだが、どんな技術がほしいのか、優先順位は何なのか、ソレに対してどこまで投資ができるか、などを考えた上で使わないと意味がない。

ドラッカー曰く、 > イノベーションとは新しい満足を生み出すことである。

革新的なアイデアをもたらすこと自体ではなく、顧客に何か満足を与えるための手段である。

普段話しているそれらの単語・手段は、「何を目的にしているのか」。法人でも個人でも同じで、自分でゴールや目的を持てないと薄っぺらくなってしまう。

これまでの常識は今の非常識に、今の非常識は未来の常識に

がんばれ・現実的・一般論では〜。

それらは、これまでの高度経済成長期には便利な言葉だったのかもしれない。 当時は諸外国に追い付くことが目標なのでゴールは見えている。あとはそこへ向けてひたすらに努力すればよかった。ならノルマを課して頑張ればいい、現実的な方向に従っていけばいい、空気を読んで仲良くすればいい。

ところが、現在は表面的には世界に追いついてしまった。ここからどう進歩していけばいいのかについては、前例・ゴールがなくなってしまった。

例えばダイソン。 吸引力の技術もコンプライアンスも価格も、日本の方が優れているようにみえる。しかしダイソンはすごく売れている。これに対して、さらに安く・技術を上げてるように「がんばって」みても無駄なのでは?

もっと悪いことに、頑張る・ノルマなどという精神的な縛りの多い環境では、発想が狭まってくるという話も。

勘は非合理なのか?効率化は有効なのか?

ロジックをしっかりさせる。」「うまくいく根拠を伝える。」 プレゼンの鉄則と言われるテクニックだが、これらは本当に正しいのか? 言葉にできないから非合理とは限らない。むしろ、合理的に説明ができたり前例があるものというのは誰でもそのアイデアに辿り着ける。つまりは競争が激しくなる。もしくは既に古いアイデアになっている。

効率化については、それに対して労力を割くということが本当に有効かという話になる。車の時代に馬車のコストを下げてみたところで、スマホの時代にiモードの使い勝手を良くしたところで、本質的にズレていたら何の意味もない。加えて、効率化を叫ぶと総じて手段が目的化しがちだろう。

単純作業でなく何かしらクリエイティブな仕事をしたのであれば、使う単語の意味をはっきりと理解した上で、目的を明確に持つこと、精神的な縛りを減らし、自分らしく主体的であること、が求められるのかもしれません。

諦める力

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諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない

陸上の為末さんの本です。

正論だけど、「それ言っちゃダメだろ」とか「おまえが言うなよ」ということをズバズバと言ってくれるのでかなり好きです。オススメの本です!

当たり障りないこととか、もう知ってることを言われても聞く意味がないんですよね。かといって全く自分が共感できないことを言われても何も面白くないわけです。「ヤバイよね〜」とか言われても情報量ゼロで時間の無駄だし、いきなり「カントの純粋理性批判によると〜」とか言われても僕は何もわかりません。「千里の道も一歩から」とかって当たり前のこと言われても何も得るものはないし。

そういった意味では、気づけそうで気づけなかったもの、もしくは口に出すのを憚っていたもの、なんかがウケるんじゃないかなと思っています。芸術とかデザインでも同じだと思います。ドワンゴの川上さんも、「コンテンツの定義は、わかりそうでわからないもの」と言っていましたし。

話が逸れました。

手段は諦めてもいい。何が目的か考えなおそう

この本の主旨は、決してネガティブで全てを投げ出そうというものではなくて、「手段は諦めてもいい。何が目的か考えなおそう」というものと、「諦めるというのは何かに注力することと同義」という非常に前向きな本です。その中で、アスリートならではの、「肉体の限界・才能の限界」について触れています。また、日本人特有の「努力至上主義」に疑問を投げかけています。なのでこの本は、既存の価値観からの脱却と捉えてもいいかもしれません。

陸上では、勝つことを諦めたくないから100mを諦めた。

勝つためにはルールを変えることも必要。

為末さんにとって、本当に諦めたくなかったのは陸上で勝つことだったそうです。そのためには花形の100mを諦めて、勝てそうな400m障害物に移ったということでした。

諦めるというのは何かに注力することと同義

何かを捨てることは、諦めること、逃げるというより選択するに近い。人生は選択の連続である。選択するということは、必然的にそれ以外を捨てることになる。「どれもこれも捨てられない」という人でも、代わりに何か、時間・集中・お金、いずれかを捨てている。

人生は可能性を減らして行く過程だとどこかで聞いたことがあって、真っ白なキャンバスには無限に可能性があるが、線を一本一本入れていくごとにその選択肢は縮まっていく。その代わり、完成した絵は代えられない価値があるものだと。

肉体の限界・才能の限界

「人間生まれながらに平等」とか、「人は望めば何にでもなれる」とか、「努力すれば夢は叶う」とか平気で言われますが、世の中に平等はないし、才能の有無もあるし、避けようのない外的要因はいくらでもありますよね。ただ直視したくない、認めたくないだけで。

才能の有無を直視できないと、「あいつはいつも努力してないのに上手くいってる」と妬んだり、「自分はなんてダメなんだ」と落ち込んだりするでしょう。あんまり精神的によろしくないです。

「諦めるな!」と応援をしてくれる、声援をくれる人は責任を取ってくれるわけではない。コーチも同じ。他人の応援・指示に従うのは楽だけど、責任は自分でしか取れないことを自覚しないといけない。

努力至上主義

日本人は、努力とか忍耐とかを重んじる風潮があります。一生懸命やった方が、なるべく辛そうなことを乗り越えたほうが世間受けはいい。からみんなやってる。(ように見せている) 努力なしに成功することはできない。しかし、分野によって努力が楽しい人と、努力が苦痛な人がいる。

「努力でなんとでもなる」というのは、なんて残酷な言葉かと思います。 他人に対してその言葉をいう人はだいたいにおいて無責任です。

自分にとって、努力が娯楽になるフィールドで頑張るべきです。 日本語の「努力」という言葉にはネガティブな意味がつきまといますが、そんな努力をしているうちは、楽しくやっている人には勝てないでしょう。そういう人は努力の質が違っていて、辛くない努力ならいくらでもできるんです。

個人的まとめ

人は場に染まります。 閉ざされた環境や、努力至上主義が蔓延しているコミュニティだと、元々好きじゃなかったとか才能がなかった人にはなんとも辛い環境でしょう。 積極的に外を見る、情報に触れることが大事だと思っています。 そうやって常に複数の視点を持っておき、そこから自律的に自分の進路を選択することで、受け身でなく主体的に自分のしたいことを選べるはずです。

例えば何か勝負・ビジネスの世界に身をおいているとして、勝つためには陰で不正をしても構わないのか?結果が絶対に必要なのか?もしくは夢を追えればそれで満足なのか?自分に問うてみるのもいいのではと思います。 この辺は意識しないと自己矛盾・手段の目的化になりがちなところのようですし。

個人的には、頭良くて不真面目な人より、頭悪くても一生懸命な人が好きです。

プログラマーの人たちを好きなのも、彼らが本当に楽しそうにしてるからだと思う。仕事がじゃなくて、技術を使う、学ぶことについて。さらにはそれを広く共有することについて。

だいたい、嫌な努力なんてしたくないんだって。話したくないやつともうまくやらなきゃいけないサークルとか、お酒飲めないのに我慢して飲めってのとか。自分が納得出来ないそれらの我慢なんてしたくないのですよ。だれだってそうでしょう。

おまけ

僕の場合、月並みですが挫折しつつ道を変えていっています。 秀才でもないので政治家や官僚は厳しい。スポーツも音楽も大学院も、向いてないと思ってやめた。どうやら知らないことを調べていくのは楽しいらしいので、それを伝える職につきたい。ただ話す才能はないので、今は文章や別の表現にしよう、などと考えてきています。

これまで、あれこれ手を出して中途半端にやめてきました。これまでの行為が時間の無駄と言われればその通りだとは思いますが、それらのおかげで自分の目標が決まってきたのも事実です。そのおかげで今はあれもこれもと欲張るのは辞め、目標を絞って時間の集中を図ろうとしています。

で、今はこの職に着いています。 いきなり超ベンチャー行っても何も出来ないから、まずは修行として。ここでも単純な実力では勝てないだろうから他の道を探しています。さらに、僕の目標としてるジャーナリストも、簡単に言えば頭が良くないからこそ向いてると思っている。

頭が良くて何の苦労もなく理解できちゃう人や学者は、一般向けに説明するのはニガテだろう。ジャーナリストはそれ専業になるあまり、どんどんマニアックになっていくでしょう。

だからこその立ち位置だ。何か学ぶこと、それを人に伝えることが苦にならなくて、頭が良いでも悪いでもないのが僕の才能だと思っているので、それを生かす方向で頑張っていきます。

なんというか、社会的に見たらダメダメなこれまでの自分を肯定してくれるような本だったかもしれません。たぶん、諦めたことのある人みんなにとってそう思わせてくれる良書だと思います。

特定機密保護法

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録りためてた朝まで生テレビを見ました。11/29のものです。 久しぶりに詳しくニュースに触れましたね。

それと、みなさまお久しぶりです。 また見に来てくれてありがとうございます。 年末に別ドメインに移行を始めようと思うので、そのころまた更新していければと思います。

さて本題。 ### まずは事実確認から(一部意訳) 『特定機密情報保護法案』は、各国と連携を取るために情報共有するにあたって、国際的な安全に関わるような特定機密にたいしては外に漏らさないように厳しく罰しようというもの。これによって他国も安心して機密情報を共有してくれるようになり、国益が守られると謳っている。直近の例ではスノーデン事件がありました。あんなのを危惧しているものと思われます。

が、内容はほとんど公開されておらず、直前に行われたパブコメも要項のみ。与党内で一ヶ月あまりに渡って議論(普段よりも長いらしい)していたおかげで衆議院で審議する時間が2週間ほどしかなかったそうで、そこであっさり通ってしまった。(ちなみに参議院でも12/6に可決している。来年の内に施行される予定

ようやく出てきた内容からは、罰する対象が曖昧であること、対象が広すぎること、それをチェックする機関が決まっていないことなどから、取材がしにくくなるのでは?とメディア界隈から特に不満の声が上がっている。

動画の中での自民党の見解

自民党としては問題無いと思っている。一ヶ月あまり与党で議論したからもう十分。これ以上これに時間を割くつもりはない。国家安全上の重要機密にあたる情報を漏らすのでなければ罰せられないから問題ない。今回(朝生)で上がった論点についてもこれから詰めていく。ちゃんと運用すればいい法案だし、ちゃんと運用できる方法をこれから詰めていく。 (日本版NSCを早く作りたいから急いでるんだろう、と指摘されていた。少なからずそれはあると個人的に思う。)

野党、ジャーナリストらの見解

法案が提出されて、慌ただしくパブコメも流れて、野党や審議会が評価するまもなく法案が可決してしまった。これは異例中の異例。簡単に言うと民主主義とか合議制とかを蔑ろにしている感。パブコメも要項しか書かれてていなくてコメントしようがない。情報開示を求めても基本的に黒塗り。これでは疑われても仕方がない。というか善悪を判断・議論しようがない。

公開非公開の基準をどう定めていくかとか、基準のチェックはどうするか、第三者的機関を作るとか、そこらへんの議論を『これからやる、ただし法律はもう作ってしまう』これは順序が違う。

法案の提出が遅れたのは与党で揉めに揉めたからだと自民党の方も言っています。現にこの朝生でも多くの論点が上がっている。そんな法案を国会でとりあえず通して、『細かい所はこれから考えようよ』って言ってるから怖い。

で、今回の話は2つがごっちゃになっている。特定機密保護法と、その実際の法律案や決め方は別の問題。世の中のジャーナリストやメディアの話のキレが悪いのもそこで、要は上手く回れば妥当な内容。ただしムリに通して、チェックの機構はこれからつくろうなんて言うから反対。この反対は法案の是非の反対とはまた違う。

最後に個人的見解

堂々巡りな議論でした。大まかには上記のものだけで問題無いと思います。結論が出ないのが悪いというわけではなくて、テレビ(朝生)に関してはむしろ狙ってやっている感すらあります。 それに関連して思ったのが田原さんの話の持ってき方は上手いなと。

久しぶりにこういった議題に触れて、専門家がどわっと話す内容について半ば頭が追いつかなかったのですが、田原さんは無知な振りをして話をぶった切ってわかりやすいところに持って行ってくれる。 学生のころは「早く先にすすめよ」と思っていたけど、今回はちょうどよかったと思っています。

法案に関しては、ケータイの料金プランみたいなもんじゃないかと思います。 本体価格なんと0円!(※ただし〜〜〜)みたいなカンジで。 (参考画像。あんまり丁度いいのがなかった)


この法案があれば国際的に協力してさらに安全な社会になります!

  • ※もしかしたら個人の知る権利は制限されるかもしれません。テロ対策ですから。
  • ※一部国会議員や官僚には適用されないかもしれません。
  • ※チェック機関はこれから検討します。もしかしたら第三者というのもなくなるかもしれません。
  • ※どの情報が該当するかは内緒です。事前の予告なく適用することもありえます。
  • ※運用は時の政権によります。自民党は関知しません。
  • ※そもそもメリットを満たせるか不明です。
  • ※情報開示しろって言われても、機密だと言って出さないかもしれません。

みたいな。

九条ねぎとか、秋田書店の抽選とかの類と同じ。

今回の法律は、与党側はそこらへんの危惧を楽観視している印象で、「みんなでよろしくやりましょう」という日本的な曖昧なカンジなんだと思います。別にそれ自体が悪いわけではないです。

日本で議論が活発でないのは、曖昧な取り決めに対して、「こんな危険があるかも」「いや〜ないでしょ」という話しかできないからだと改めて思いました。企業の会議もこれに近いんじゃないでしょうか。

集団でバックグラウンド価値観も違う人たちに対しての取り決めは、きちんと明文化しないといけないのではないか、そして今の日本は昔以上に多様な価値観を持っているのではないか、と思いました。

2013年振り返り

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※過去記事です。

今年も一年が終わりました。

社会人一年目としての振り返りと来年に向けてです。

セキュリティ対策は乾布摩擦だ

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※過去記事です。

セキュリティ対策は乾布摩擦だ! (ブレインバンクビジネス選書)

まぁまぁ面白かったです。 タイトルの意味は、 セキュリティは、何かシステムで一気に変えれば良いのではなくて、社員一人ひとりが小さなことを意識していくことが重要だというのが、 風邪を引かないようにするには、注射を打つのではなく日頃の乾布摩擦が大事だよ、ということに似ているからだそうです。